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大阪高等裁判所 昭和61年(う)278号 判決

主文

原判決を破棄する。

本件を神戸地方裁判所に差し戻す。

理由

本件控訴の趣意は、検察官榎本雅光作成の控訴趣意書(但し、陳述しなかった部分を除く)、同小林秀春作成の控訴趣意訂正申立書、控訴趣意補充書、同谷本和雄作成の控訴趣意補充書に記載のとおりであり、これに対する答弁は弁護人古高健司作成の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。

第一  総論

一  控訴趣意の要旨

本件公訴事実は「被告人は、社会福祉法人甲山福祉センターが経営する精神薄弱児施設である兵庫県西宮市甲山町五三番地所在の甲山学園の保母として昭和四七年四月から勤務しているものであるが、同学園青葉寮に収容されているA(当時一二年)を殺害する目的をもって、昭和四九年三月一九日午後八時ころ、同児を同学園青葉寮から連れ出したうえ、同学園内の北部にある水深約一・五メートルの汚水浄化槽に投げ込み、よってそのころ同槽内で同児を汚水吸引により溺死させて殺害したものである。」というものであるところ、原判決は、本件直前に被告人がAを青葉寮内から連れ出すのを目撃した同寮の園児C、D、E、Fの各供述、右各供述の裏付けとなる同寮の園児Gの供述及び被告人の捜査段階における自白の各信用性を否定し、また、本件当時被告人が着ていたダッフルコートとAが着ていた着衣にそれぞれの着衣の構成繊維が相互に付着している事実を認定しながら、本件との関連性を否定し、結局右公訴事実を認めるに足りる証拠はないとして、被告人に無罪を言い渡した。

しかしながら、検察官は、本件が精神遅滞児収容施設という社会から隔離されたいわば密室内ともいえる場所で発生した殺人事件であり、事件直後から、学園職員の中の組合活動家を中心に、熾烈な証拠隠滅工作や捜査妨害が行われた事件であったところ、物的証拠も乏しく、被告人が公判廷において犯行を否認しているうえ、被告人がAを浄化槽に投げ込むという殺人の実行行為の核心部分についての目撃者がおらず、わずかに犯行直前に被告人が被害者であるAを青葉寮の外に連れ出した事実が精神遅滞児の園児によって目撃されたにすぎず、かつ、核心部分の直接証拠としては、被告人の不十分な自白しかないことから、数多くの間接事実の積み重ね、すなわち、この核心部分の前後の状況等を詳細に立証するとともに、各証拠の信用性についても立証しようと考え、原審における立証として、〈1〉 第一段階として、事件の背景と実態及び被告人の犯行を裏付ける証拠関係(被告人が昭和四九年三月一七日に本件浄化槽にBが転落する事故を目撃しながら救助せず、マンホールの蓋を閉めて事実を秘匿したこと、被告人が右の事件発生後学園関係者とともにBの捜索をしているうち、のちに犯行の際Aに与えたとみられるみかんを、同月一九日に伊丹市内でその夜のおやつとして購入したこと、同日午後七時三〇分ころ、被告人がB捜索から学園に帰り管理棟事務室に入ったのち、Aの行方不明が判明するまでの間の、同事務室にいた被告人、園長甲、指導員乙、同丙らの各行動等とその各時刻、右時間帯における青葉寮ディルーム及び居室「さくら」内でのAや他の園児の行動とそのころ園児によって被告人がAを連れ出したことが目撃されたこと、青葉寮宿直指導員西田政夫によるA行方不明の発見とその時刻及びその後の同寮宿直保母岡こと高尾紀代との捜索状況とその捜索中に西田、岡によって、青葉寮前のグランドにいる被告人が目撃されたこととその時刻等)、Aの死因等(死因は溺死で、死亡は胃の内容物の消化状態から食後二時間ないし三時間以内であること、胃の中に死亡の直前に摂取したとみられるみかん六袋が発見されていること、死体の損傷状況やマンホールの構造等からAはマンホール内に足先からほぼ垂直に、両足を真っ直ぐ揃えた状態で、両手を両脇につけるか、上の方にばんざいをする形で身体を前後左右に動かさない状態で落下したものであること等)、犯行時間帯における学園関係者の行動(学園内には前記事務室内に被告人ら四名、青葉寮に西田ら二名がいたほかは、若葉寮に五名、用務員宿舎に二名の職員がいただけで、他の職員は全て学園外にいたこと及びこれらの職員の、Aが最後に目撃された午後七時五七分ころから西田がAを捜すため青葉寮を出た午後八時七分ないし八分までの行動をみると、被告人にのみアリバイがないこと)、乙らによる被告人のアリバイ工作とその破綻(同僚の学園職員や園児らに対して圧力がかけられたり、口止めがなされた事実等)、繊維の相互付着に関する事実(被告人及びAの着衣に、それぞれ相手方の構成繊維と酷似するあるいは類似する繊維の付着が認められたこと、本件時以外に繊維の相互付着が起こりえないこと等)、被告人の自白とその裏付け(B転落時の状況とそれを被告人が目撃したこと、Aの胃の中から発見された未消化のみかんのサイズが当日昼食時に支給されたもののサイズと符合せず、被告人が伊丹で購入したもののサイズと符合すること、繊維の相互付着とA落下の際の体位等)を、〈2〉 第二段階として、目撃園児五名の供述の信用性(精神遅延児の供述特性と供述の信用性についての鑑定結果と初期供述の際を中心とする捜査段階における供述経過やその取調状況等)を、〈3〉 第三段階として、自白の任意性と信用性(取調状況と自白の経緯、特に被告人に対する強力な支援活動との関係等)をそれぞれ予定していたところ、原審は、右の検察官が立証を予定していた多くの状況証拠の中から、園児の供述、繊維の相互付着に関する鑑定、被告人の自白のみが証拠であると独断したうえで、前記の検察官が立証しようとする間接証拠の積み重ねや被告人にはアリバイがなく被告人以外の者が犯人でありえないことの立証を許さなかったばかりか、その限定した証拠のうち、ことに検察官において「園児供述」の信用性を判断するためには、各園児の知能構造、能力についての専門家の意見を聞く必要があり、かつ、これらに対する知見と認識に基づいて、各園児の取調経過及び供述時の状況、各園児に対する罪証隠滅工作等の影響を検討する必要があるとして取調請求したこれらの関係各証拠をことごとく却下する等した結果、右各園児の供述の信用性の判断を誤り、また、「繊維の相互付着」についても、そのこと自体犯人と被害者の身体が接着したという事実を証明する有力な物的証拠であるから、原裁判所において相互付着の事実を認めた以上、相互付着の機会が本件犯行時以外にありえないとする検察官の立証は当然許すべきであるにもかかわらず、その立証をも許さなかったばかりか、独自の推断をもって本件犯行時に各着衣が接着したものとは断じられないとして本件時における相互付着の事実を否定し、さらには、「自白」についても、その任意性・信用性を判断するには取調状況ばかりでなく、その捜査経過及び捜査状況、被告人と取調官との人間関係、支援活動の実体などを総合検討したうえで、被告人への精神的影響を正しく認識する必要があるのに、そのことに思いを致すことなく、これらに関する立証を許さなかった結果、第一次捜査で被告人を逮捕・勾留した当時の捜査状況を誤認し、被告人が自白するに至った背景や、その動機を見誤り、証拠に基づかない予断と偏見で自白を評価し、その信用性を否定するという誤りを犯したものである。

以上のとおり原判決の訴訟手続には尽くすべき審理を尽くさない法令違反があり、また、その結果証拠の評価を誤りひいては事実を誤認したもので、これが判決に影響を及ぼすこと明らかである。

二  原審における審理の概要と原判決の構成

1  原審における検察官の立証方法とその証拠採否・証拠調の大要

検察官は、五〇〇点近い証拠の取調請求をしたが、そのうち、本件で争点となり、原判決がその当否について判断した証拠を中心に概観すると、被告人の捜査段階の供述調書のほか、前記控訴趣意要旨中に記載の第一段階の立証として、証人五二名とAの死因等についての鑑定書二通、繊維の相互付着に関する鑑定書八通のほか検証調書等の書証、証拠物を、第二段階の立証として、証人二一名と園児供述の信用性に関する鑑定書三通を、第三段階の立証として、証人五名をそれぞれ証拠請求したのに対し、原審裁判所は、被告人の捜査段階での供述調書のほか、第一段階のものとしては、証人として、三月一七日にBが浄化槽に転落した際近くにいた被告人を目撃した園児、被告人がAを青葉寮から連れ出すのを目撃した園児等園児五名、本件当夜の青葉寮の宿直指導員と保母各一名のほか、死因等及び繊維の相互付着の各鑑定の関係で一二名、検証調書の作成の関係で一名、死体の引き上げ状況について一名、学園周辺の捜査状況について一名を、書証として、鑑定書、検証調書のほか同意書面、証拠物を各採用し、第二段階のものとしては、証人として取調検察官九名を、書証として、各園児の検察官面前調書を刑訴法三二一条一項二号の書面として各採用し、第三段階のものとしては、取調検察官一名、取調検察官二名を採用し、それぞれ取調べたが、その余の証拠請求はすべて却下した。

2  原判決が無罪とした理由の骨子

原判決は、前記の各証拠について証拠調を実施した結果、「園児供述」については、そのいずれの供述も内容が不合理・不自然で、無視できない変遷があること、C以外のものは事件後三年以上を経過したのちに初めて供述するに至ったものであって、事件直後に供述しないでいて、その後長期間経過して供述したことに合理的な理由が見いだせないこと、各供述は、取調官の誘導や他からの情報の影響に基づくものであることの疑いが強いこと等を理由にその信用性を否定し、また、被告人の捜査段階の「自白」については、短時日のうちに自白・否認を繰り返すなど供述の変転ぶりが顕著であり、その内容自体も極めて断片的・概括的で不完全なものにすぎないなどその信用性に疑問を抱かせる事情が少なくないこと、右の自白の背景には、連日の長時間にわたる取調という精神的重圧のなかで、事件当夜の自己の行動について詳細な供述を求められる一方、園児供述など不利益な証拠が揃い、父親や学園関係者までが被告人を疑っているかのように示唆されて絶望的な心理状態に追い込まれていった経緯が窺えること、ことにその述べるところの犯行の動機には到底常識的に首肯できない疑問と論理的飛躍の甚だしい不可解な点のあることや犯行状況についての供述にも、いわゆる秘密の暴露も、また、迫真性・臨場感のみられる部分はもちろん、とくに被害者の動きについて述べるところもないなど、極めて不自然であること等を理由にその信用性を否定し、さらには、「繊維の相互付着」については、鑑定結果そのものを評価しながらも、その付着繊維が同一であることまでは認定できないこと、鑑定結果は相互付着の時期・場所までも明らかにするものではないこと、相互付着という現象は着衣が直接接触した場合にのみ起こるとは断定しがたいとしたうえ、本件当夜以外の時期・場所においても相互付着の原因となる事態がありえたとの疑いを差し挟む余地もあること等を理由に本件犯行との関連性を否定し、結局、被告人と本件公訴事実との結び付きを首肯しうるに足りる立証は不十分であるとして被告人に対し無罪の言渡をした。

三  事件及び捜査の概要

関係各証拠によれば、事件及び捜査の概要については概ね原判決の認定のとおりであるが、以下に若干敷衍する。

1  甲山学園の概況

(一) 施設の概要

甲山学園は社会福祉法人甲山福祉センターの経営する精神遅滞児の養護施設であり、原則として一八歳未満の重度、中・軽度の精神遅滞児を収容し(定員一〇〇名)、これらの収容児については日常生活を通じての生活指導・訓練を実施し、学齢期に達した者に対しては小・中学校教育を行っていた。

学園内にある主な施設としては、重度の精神遅滞児を収容する若葉寮、中・軽度の精神遅滞児を収容する青葉寮、園長らの執務する事務室などのある管理棟、青葉寮収容児のための食堂や厨房のあるサービス棟、授業の行われる学習棟、新学習棟のほか用務員宿舎などがあり、その状況は別紙(一)(甲山学園見取図)のとおりであり、学園の敷地は、高さ約二・二メートルの金網のフェンスで囲まれて施設外とは区切られており、敷地の南側に設けられた正門以外に学園に出入りできる入口はない。

青葉寮及びその周囲の状況は別紙(二)(青葉寮平面図)のとおりであり、同寮は、南向きの玄関を中心に東西に「へ」の字型に伸びる平屋建の建物で、玄関を入ったところがボイラー室、その北側にディルームが設けられ、ディルームは園児の遊戯室、娯楽室として使われ、テレビが設置され、寒い季節には炬燵が設けられている。ディルームより東側が女子棟に、西側が男子棟になっていて、女子棟の南側には八つの部屋が棟の東端まで並んでおり、ディルームに最も近い部屋が保母室、その東隣が洗濯物の仕分け室になっているほかは園児の居室となっており、一方、男子棟の南側には一〇の部屋が棟の西端まで並んでおり、ディルームに最も近い部屋が保母室になっているほかは園児の居室となっていて、各居室の南側(運動場側)にはガラス戸が、北側(廊下側)には引き戸式の出入口とこれと並んで押入れがついている。これら園児の居室の北側はディルームから各棟の端まで板張りの廊下になっていて、ディルームに近いところの、居室と廊下をはさんだ北側には、ディルームの東側にロッカールーム、物置、女子便所、洗面所が、西側にロッカールーム、男子便所、洗面所が並んでいるほかは腰高のガラス窓がついており、女子棟廊下の東端および男子棟廊下の西端には各非常口が、ディルームの北側に二個所出入口があるが、非常口は通常施錠されており、開錠は職員の持っているマスターキーによってなされており、ディルームの二箇所の出入口は机などを置いて出入りできないようになっている。廊下には、各居室の出入口の位置に当たる天井中央部分に蛍光灯一灯による照明器具がついており、この照明は、午後八時に就寝することになっている小学生以下の園児が床についているのが確認された時点で半分が、また、午後九時に就寝することになっている中学生以上の園児が床についているのが確認された時点で全部が消灯される。

また、女子ロッカールーム及び物置の北側にあたる屋外に本件の殺害現場となった汚水浄化槽が設けられており、この浄化槽は東西約三・二二メートル、南北約二・四六メートルのコンクリート造りで、地表より約三二ないし四〇センチ高くなっていて、南西隅及び東北隅の二箇所に鉄製の蓋で覆われたマンホールがあり、南西隅のものは穴の内径は四三センチメートル、深さは二五六・五センチメートル、鉄製の蓋は直径四八センチメートル、重さ一七・五キログラムであり、また、東北隅のものは底が浅く、中に水中ポンプが設置されている。浄化槽の東側には物干し場がある。

(二) 職員の構成と勤務体制等

昭和四九年三月当時、甲山学園には、園長、副園長各一名、指導員(四年制大学卒業者)一〇名、保母(短期大学卒業者)一二名、事務員、ボイラー技師各一名、用務員三名、実習生一名、計三〇名の職員が在籍しており、うち、青葉寮担当は指導員三名、保母七名であり、被告人は保母として青葉寮に配置されていたものである。

青葉寮を担当する職員の勤務体制は、普通の日勤(午前八時四五分から午後五時まで)、早出勤務(午前七時三〇分から午後三時三〇分まで)及び宿直勤務(午前八時四五分から翌日の午前八時四五分まで)の三種類に分かれており、日曜・祭日の日勤については終業時間が午後四時三〇分に繰り上げられていた。なお、青葉寮における昭和四九年三月一七日(日曜日)の日勤者は指導員西田政夫と保母岡こと高尾紀代(以下岡という。)、宿直者は指導員乙と被告人であり、三月一九日の宿直者は西田指導員と岡保母であった。

(三) 青葉寮の園児とその日常生活等

昭和四九年三月の本件当時、青葉寮には男子三一名、女子一六名の園児が収容されており、その氏名、生年月日、居室割当等は別紙(三)のとおりである。

園児の食事の時間は、朝食が午前八時ころ、昼食が正午ころ、おやつが午後三時ころ、夕食が午後五時ころで、就寝時間は小学生以下は午後八時、中学生以上は午後九時である。また、夕食後、ディルームでは午後六時からテレビがつけられ、園児はそれぞれの就寝時間までこれを見ることができる。

2  園児の行方不明と死体の発見

(一) Bの行方不明

三月一七日、宿直であった被告人は、園児の夕食時間であるのに、青葉寮の園児Bが食堂に姿を見せず、その居場所も判らなかったことから、相勤者の乙指導員にその旨を告げ、乙指導員は園児らとともに学園の内外を捜したがBを発見できず、帰宅していた副園長山崎種之に連絡し、その後、山崎副園長や非常招集を受けて登園してきた職員のほか、学園からの通報で出動してきた警察官らが翌一八日午前一時ころまで学園の内外を捜索したもののBを発見するには至らなかった。三月一八日も朝早くから職員らが園の内外を捜索したがBの所在は確認できず、午後五時ころ捜索活動を一旦中断したうえ、園児の捜索ビラを作り、男子職員が夜半までビラ配りなどして捜索活動を続けた。

(二) Aの行方不明

三月一九日は、Bの捜索ビラを一般市民にも配付して協力を要請することとし、管理棟事務室で捜索ビラの印刷やBの顔写真入りの立看板の制作等がなされ、職員らはビラ配りに出向いたりしたが、学園をあげての捜索活動が行われたにもかかわらず、B発見につながる情報が得られないまま経過していた。

同夜、青葉寮の園児らは、午後七時からテレビで放映される「キャシャーン」、午後七時三〇分から放映される「イナズマン」、午後八時から放映される「歌謡ビッグマッチ」を見るため、その大部分がディルームに集まってテレビを見ており、テレビを見ない園児は居室で遊んだり、就寝していたが、同日午後八時すぎころ、青葉寮の宿直勤務西田指導員は、当然同寮内にいなければならない筈のA(当時一二歳)の姿が見当たらなかったことから、相勤者の岡保母とともに同寮内の居室等を捜したがAを発見できず、当時在園していた職員にも連絡し、園内全体にわたる捜索を行うとともに、午後八時五六分ころ、学園から西宮警察署に一一〇番通報がなされた。

(三) B、Aの死体の発見

Aの捜索をしていた乙指導員は、ボイラーマンの神代兵吾とともに青葉寮女子棟裏にある前記の浄化槽を見にいった際、マンホールの蓋はきちっと閉まっていたが、念のため浄化槽の南西隅にあるマンホールの蓋を開けて浄化槽内の汚物をかきまぜてみたところ、Bの死体を発見し、さらにもう一体死体らしきものがあるのが判ったことから、西宮警察署に通報し、午後一一時すぎころB、Aの死体が相次いで引き上げられた。

3  捜査の概要

(一) 兵庫県警察本部は、Aの死体発見の経緯等にかんがみこれを殺人事件と断定し、三月二〇日所轄の西宮警察署に捜査本部を置き、捜査を開始した。捜査本部では、同日の午前一〇時三〇分ころから午後五時ころまでにかけて、捜査員らが、学園の敷地周囲に設けられているフェンス及びその外傷周辺の検証を実施したが、犯人が外部から学園内に侵入したことをうかがわせる証跡は発見されなかったほか、学園の内外での聞込み捜査、変質者の調査等を行った。

(二) 一方、捜査本部の嘱託により、同日、神戸大学医学部法医学教室所属の医師溝井泰彦の執刀でAの司法解剖が行われ、その結果、同児の死因は溺死であること、その左右頭頂部に三箇所の皮下出血が認められるほかには新しい外傷はないこと、同児の胃のなかにはかなり消化された米飯等があり、夕食後二ないし三時間を経過したころ死亡したと鑑定されたほか、同児の胃内にはほとんど消化されていない「みかん」のあることが明らかになった。

(三) 捜査本部では、甲園長から不審者として情報の提供のあった用務員宿舎に居住する用務員二名及び青葉寮の年長園児について捜査をしたものの疑わしい者を発見できなかったことから、捜査本部が想定した犯行時間帯にA殺害の行為に出ることの可能な職員の中でアリバイ等の存する者を容疑者の圏内から消去していくうち、事件当夜、管理棟事務室にいた園長甲、青葉寮指導員乙、被告人、若葉寮指導員丙の各供述に食い違いがあり、特に、被告人の当日の午後八時前後のアリバイ供述が不自然であるとして、これらの者に対する取調べを行おうとしたものの、四月三日被告人及び乙指導員らから取調べを拒否する旨の通告を受けたが、一方、捜査本部では、同日、青葉寮の園児Cから「GがAを呼びにきたあと、女の先生がAを呼びにきて非常口の方に連れていったのを見た。」旨の供述が得られ、ついで、その翌日同女から「Aを連れ出したのは被告人である。」旨の供述が得られたりしたことから、被告人をA殺害の犯人と断定し、強制捜査に踏み切り、同月七日被告人を本件殺人の被疑事実で逮捕した。

(四) その後、被告人は兵庫県警察本部付設の代用監獄に留置され、身柄付送致を受けた神戸地方検察庁尼崎支部と兵庫県警は、被告人を取り調べるとともに、学園の職員・園児らからの事情聴取を行うかたわら、被告人の着衣とAの着衣の間の繊維の相互付着に関する鑑定等の裏付け捜査を実施した。被告人は勾留中の四月一七日から二一日までの間、警察官の取調べに対して犯行を認める旨の供述をしたが、その後は否認する状況下で神戸地方検察庁尼崎支部では勾留期間の満了する同月二八日の時点で処分保留のまま被告人の身柄を釈放し、その後も、被告人の嫌疑を補強する証拠の収集を継続した。しかしながら、神戸地方検察庁は、昭和五〇年九月二三日、当時まで集められた証拠関係によっては公訴の維持が困難であるとして被告人を不起訴処分に付した。(以上の捜査を「第一次捜査」という。)

(五) その後、神戸検察審査会では、Aの両親の申立を契機に、同年一〇月八日職権により立件したうえ、右不起訴処分の当否についての審査を遂げ、翌五一年一〇月二八日「不起訴不相当」の議決を行い、同年一二月一〇日右議決書の送付を受けた神戸地方検察庁は直ちに再捜査を開始した。(これを第二次捜査」という。)

(六) 神戸地方検察庁では、学園の職員、その他の学園関係者等に対する事情聴取等により、被告人の本件当夜のアリバイ関係の捜査を実施するとともに、本件当時甲山学園に在園した元園児(以下「園児」という。)からの事情聴取等を進めていたところ、青葉寮の園児Dから「被告人が本件当夜青葉寮女子棟の非常口付近でAを寮の外へ引きずり出すのを見た。」旨の新供述が得られ、また、これを補強する青葉寮の園児Gの供述が得られたほか、C及びGの供述の信用性について精神医学あるいは心理学の立場からの鑑定を行い、さらには被告人のアリバイ関係を中心に参考人の取調べを重ねたすえ、昭和五三年二月二七日被告人を再逮捕した。被告人は検察官の取調べに対して黙秘を貫いたが、園児に対する事情聴取等により、さらに青葉寮の園児E及びFからも被告人の犯行を裏付ける供述が得られ、神戸地方検察庁は第二次捜査の結果、昭和五三年三月九日本件公訴を提起した。

(七) なお、被告人ほか二名の者が、第一次捜査において被告人を逮捕・勾留して捜査したことが違法であるとして国及び兵庫県を被告として国家賠償請求事件を神戸地方裁判所尼崎支部に提起し(同庁昭和四九年(ワ)第三一一号)、一方、神戸地方検察庁は、右国家賠償請求事件における証人尋問の際、前記本件当時の園長甲及び指導員丙が本件当夜の管理棟事務室内の出来事等について自己の記憶に反して虚偽の供述をしたとして、昭和五三年三月一九日右両名を偽証罪で神戸地方裁判所に起訴した。

四  当審における事実取調の大要と当裁判所の判断の骨子

1  事実取調の大要

まず、この点に関し当裁判所の判断の視点と当審における審理の方針について一言するに、当裁判所は、前記検察官の控訴趣意とそのなかでの所論の各点につき、これに対する弁護人の答弁を参照しながら、原審記録及び証拠物を検討した結果、本件公訴事実に関する主要な証拠としては、要するところ、原判決も指摘するとおり、検察官提出の(一) 被告人の捜査段階における自白〈証拠〉と(二) その犯行動機を裏付ける、B転落の際、近くにいた被告人を目撃した旨述べる園児Eの検察官に対する供述〈証拠〉及び犯行状況、すなわち被告人が被害者Aを寮外に連れ出す現場を目撃した等述べる園児D、同C、同Fの各証言とこれら三名及び園児Eの検察官に対する供述〈証拠〉にくわえ、これらの目撃供述を補強する園児Gの証言及び検察官に対する供述〈証拠〉の各信用性に関する判断及び(三)犯行態様に関する被告人の自白を裏付けるものと考えられる被告人とAの各着衣の構成繊維が相互に付着している旨の鑑定結果〈証拠〉等であって、結局これらの証拠に対する信用性と評価をどう判断するかによって犯罪の成否が決するものと考えるに至ったものであるところ、(一)の自白調書及び(三)の鑑定書については、のちに詳述するように、それらに対して原判決がした信用性とその証拠評価等の判断については、記録に基づき審査することが可能との結論に達したが、(二)の園児供述の信用性については、後に詳述するが、いずれの園児も当時未成年で、しかも施設に入園していた精神遅滞児であり、そのうえ、Cを除く園児の供述は、いずれも事件後相当年月を経た、いわゆる第二次捜査の段階になってなされたものであることにかんがみ、それら園児の知的能力や供述特性について十分な検討を加えたうえ、特にその初期供述がなされた状況を明らかにして、その信用性を判断すべきものと考え、その関係での事実取調を行うこととし、当審において検察官が取調請求した証人三八名、鑑定書等の書証七通、証拠物一二点のなかから、特に園児供述の信用性に関するもののうち、精神遅滞児の供述特性一般に関して証人一名、Cに関して証人四名(鑑定人二名、初期供述の際の取調べ警察官及び立会人各一名)、鑑定書一通(但し、本件に関する具体的供述の信用性についての部分を除く。)、Dに関して証人六名(鑑定人三名、初期供述の際の取調べ警察官一名及び立会人二名)、鑑定書二通(前同)、及び証拠物数点等を各採用して取調べたほか、弁護人請求の精神遅滞児の供述特性に関する証人一名及び書証数点を採用して取調べる等の事実取調をした。

2  判断の骨子

当裁判所は、前項で述べた判断の視点に基づきさらに記録及び証拠物を子細に調査し、特に園児供述の信用性の関係については、当審における事実取調の結果をもあわせて検討を加えた結果、それぞれ後記各論の項で詳述するとおり、被告人の自白については、それが一貫してなされているものではなく、また、その自白は取調が重ねられるうち、断片的ながらも積み上げられたものであり、かつ、その内容がかなり概括的なものであることは否定できないものの、もともと本件公訴事実をみても明らかなように、犯行そのものは、態様の複雑なものではなく、また、被告人自ら述べるように偶発的な犯行であること等を考えると、その述べるところの事実のうち、青葉寮への侵入やA連れ出しの状況及び殺害方法など、その犯行の中核と思われる部分については相当程度具体的な事実を供述しているものといえるし、とくにAをマンホールに投げ入れたというその態様については、その後になされた鑑定結果とも矛盾しないことや、一方、その取調状況をみても、強制にわたることがなく、この点については被告人自身が認めるところであり、かつ、当時被告人において度々弁護人の接見を受け、また、支援グループからの声援をも受けている状況にあって自白したものであること、その供述する犯行動機は必ずしも首肯しえないものではないこと等を考えると、これらの被告人の自白内容については原判決が指摘する疑問点は必ずしも当を得たものではなく、その信用性を否定することは相当でない。

また、園児供述の点についてみると、DやCの各供述の信用性を判断するにつき、原裁判所においては、当審で取調べた鑑定書や鑑定人の意見にみられる精神遅滞児の知的能力や人格行動等の特性あるいはその他の証拠から窺える学園内での園児を取り巻く環境、すなわち園児と保母らとの人間関係、ことに本件発生後における一部職員等による証拠隠滅工作あるいは捜査妨害とも思われる動きの中で、いわゆる園児に対する口止めの事実等の存否を糺すことをしなかったのみか、各園児らの捜査段階における取調については、そのほとんどの場合、その父母か保護者に当たる者あるいは在園中の者については施設の職員等を立ち会わせるなどしてなされたものであるから、特に重要な事実が相当年月を経過した後供述されたものであればあるほど、その事実が初めて供述されたその時の取調状況について、当然その際の取調官や立会人を取調べ、その時の供述状況を究明したうえそのことを踏まえて直接証拠になる検察官に対する供述や証言の信用性を検討すべきであるのに、それらの証拠調請求を却下したうえ、取調検察官のみを尋問し、格別供述の信用性に疑いを差し挟むべき事情も見当たらないのに、これら検察官に対する供述についてことごとく信用性を否定したばかりか、また、その証言についても、公判期日外で尋問が行われたとはいえ、これら園児の性格特性をも無視した尋問状況にあることを直視しないで、これを成人の場合と同視した考えに立ち、それ自体事件の核心部分とも思われない些細な供述事実をとらえ、それに変遷や矛盾があるとしたうえ、くわえて知的能力の面では年少者ともいうべきこれら精神遅滞児の受ける供述時の負担や供述能力に思いを至すことなく、その供述を表面的にとらえ、その知覚過程が十分でないとか、その供述事実に前後の整合性や理由づけがないとか、その変遷理由に合理的説明がなされていないなどといい、一貫して述べる事件の核心部分の供述までも一概に信用できないものとしたのは、一にかかって先に述べたようにいわゆる初期供述に対する取調状況の立証を許さないで、その判断を誤った結果、結局その証言の信用性についてまでもこれを否定する誤りをおかしたものであり、この点の判断は到底首肯できるものではない。

してみると、当審においてその余の園児三名(F、E、G)の供述関係について、特にその点の事実調は行わなかったが、これら園児の供述は前記のDやCの供述事実を補強する意味で重要な証拠であることにかんがみると、当然先に指摘した諸点の究明をなすべきであるのに、原裁判所においてはこれらの関係について特段の証拠調をしないで、その判決書に説示するような理由をもって、その信用性がないとしたその判断は、結局前記DやCに関して述べたのと同様誤ったものといわなければならない。

最後に、繊維鑑定の点に言及するに、その関係証拠によると、被告人とAの各着衣に「非常に酷似する」繊維が互いに付着している旨の鑑定結果については、原判決も説示するように、その鑑定の資料となった付着繊維の採取過程にも、また、その鑑定手法についてみても問題がなく、それなりの評価尊重できるものであることが認められるところ、原判決は、この鑑定について、鑑定結果そのものは被告人とAの着衣がいつどのようにして相互に接触したかの点までも明らかにするものでないことを理由にして、本件では被告人の自白やこれを裏付ける園児供述によって被告人が犯人であると結び付けられない以上、鑑定結果そのものがもつ証拠としての説得力は弱いものであるとの判断に立ち、そのうえで鑑定に用いられた試験片(繊維)が小さく、破壊できない制約があって、化学分析ができなかったことを重視し、たかだかその結果は相似性が高いという程度のものであると結論づけ、かつ、繊維の相互付着は、着衣の直接接触の場合にのみ起こるものとは断定できないとの論理を展開し、検察官において本件当夜以外に相互付着の機会がないことを立証しようとしたのにこれを許さず、結局、本件犯行の機会以外に相互付着の原因があったとの疑いが否定できないとして、右の鑑定結果は被告人の犯行を裏付けるものと解することは許されない旨判断しているが、右の原判決が指摘する鑑定結果の証明力には一定の限界があるなどとする点についてはこれを否定するものではないが、本件鑑定結果によると、双方の着衣に付着する繊維が「非常に酷似する」というものである以上、特段の事情が認められない限り、現実的常識的に考えて、それは「飛来」など接触以外の原因によるものとするよりは、各着衣が直接接触したことを強く推認させるものと考えるべきであるところ、関係各証拠によると、本件当夜、被告人が右の鑑定資料となったダッフルコートを着用していたことや、このコートを着てこれまで園児の面倒をみたことのないことは被告人も認めるところであり、そのことが一応真実と考えられる以上、右の鑑定結果は、それ自体被告人と本件犯行とを結び付ける決定的ともいえる有力な物的証拠であるといわざるを得ないにもかかわらず、原裁判所において前記の被告人の自白や園児の供述についてその信用性がないとの結論に達したとはいえ、検察官の請求した本件犯行時以外に相互付着が生ずる可能性のないことの立証を許さないで、その鑑定結果そのものが本件犯行を裏付けるものとは解されないとした判断そのものは、その証拠自体のもつ価値評価と本件との結び付きを誤ったものであり、相当でない。

してみると、園児供述及び自白に関する原裁判所の判断は、右に説示したとおり、検察官においてこれらの関係で取調請求した証拠を取調べないで、いわば審理を尽くさず、その点の事実を配慮しないで信用性を否定したものであり誤ったものといわなければならない。かえって、これまで取調べた証拠関係をみる限り、DやCが事件直前に被告人が被害者Aを連れ出したとする被告人の犯行を結び付ける事件の核心的部分に関する供述は信用できるとみるべきである。また、繊維の相互付着についても、原裁判所はその関係での検察官の請求した証拠を取調べないで、結局その評価と事件への結び付きの判断を誤ったものといわざるを得ないのみか、かえってそのこと自体は、被告人の自白を裏付けているものとも評価できるものである。

以上に説示の当裁判所の判断によると、今後これらの証拠を正しく評価判断するためには、少なくとも、園児供述に関しては、園児の知的及び供述能力やその置かれていた立場、特に学園関係者らによるこれら園児に対する口止め等の罪証隠滅工作の有無とその初期供述をした時点の取調状況を、また、自白に関しては、被告人のアリバイ工作の有無、繊維の相互付着に関しても、本件犯行時以外に付着の可能性があったか否かの点を取調べる必要があるものといわなければならず、結局原判決が以上の証拠調をすることなく、これらの事実を正視しないで、園児供述及び自白の信用性を否定し、また、繊維の相互付着の本件との結び付きを否定するなどした判断はこれらの点につき審理を尽くさず、ひいては事実を誤認したものである。

第二  各論

本各論で検討を加えるのは、総論で述べたように、本件の犯罪の成否は、被告人の自白とこれを裏付ける園児供述の信用性と繊維鑑定の評価の判断如何にかかるものであるが、原判決はこれらの点につき園児供述次いで自白、繊維鑑定の順に従って判断しているので、当裁判所においても各論についてはこれらの順序に従って詳述することとする。

一  園児の供述について

ここで検討する園児供述の信用性の判断の対象となる供述は、いずれも本件犯行を直接証明する証拠として提出された前掲第一総論四の1の事実取調の大要の項に記載した各園児の証言とその者の検察官に対する供述調書に記載された供述であるが、これらの供述の信用性を判断するについては、いずれもその以前になされた警察段階での供述内容を、その供述経過とその時々の取調べ状況をみたうえ、それらの供述内容と供述事情を勘案しながら検討を加えることになるから、以下においては、まず供述の時間的経過に従いその内容を掲示し、右に述べた順序で検討を加えて判断する。

ところで、右の検討にあたって留意すべきことは、各園児はいずれも本件発生当時年少者(少なくとも精神年齢としては)であり、かつ精神遅滞児であって、ともに甲山学園で生活していたものであるところ、精神遅滞児とこれと精神年令を同じくする健常児との間で決定的に異なるところの供述特性が認められるか否かの点はさておくとしても、一般的に年少者の観察力は即物的であるとはいえ、認識し理解できる範囲内の出来事について年長者のそれに劣るとは必ずしもいえず、また、一度固定化されたものは、自己の利害得失や相手の立場を考えるなどの偏見に基づく虚言の可能性が少ないといえる特性のある反面、その知的発達が十分でないため、その供述過程においては被暗示性が強く、他からの情報や尋問者の誘導等に左右されやすく、また、感情統制が十分でないため、自己をとりまく人間関係やその置かれた環境の影響を受けやすく、一方、知的能力、言語能力が十分でないことから、質問の意図を理解したうえでの関連づけた思考が困難で、その供述する事実の全てにわたって一貫しない面があったり、また、ひとつひとつについて合理的に整合する理由づけが十分できないきらいがみられるなど、その供述内容には自ずと限界があることが否定できないので、その供述の信用性を判断するにあたっては、絶えず知的能力や表現力を考慮し、供述内容の合理性や一貫性の有無のみの判断にとらわれず、その供述事項、すなわち、認識対象の難易やその知覚過程、さらには供述者の置かれている環境、供述時の状況等を総合しながら、とくに本件においては、それが供述に至るまでの間の情報や外部からの圧力の有無・程度、とりわけ初期供述の際の強要や誘導の有無、供述者を取り巻く環境、尋問者との人間関係等とそれへの対応姿勢等についての十分な検討が加えられることが必要である。

そこでまず、園児供述のうちで事件の核心的な事実を供述していて、原審においてその信用性について問題となり、その関係で当審において事実取調べをしたC、Dの各供述の信用性について検討する。

1  Cの供述について

(一) C(昭和三七年四月四日生)は昭和四四年四月から前記のとおり甲山学園に在園し、青葉寮の「さくら」の部屋に起居する園児で、本件当時の生活年令は一一歳一一月で、当審で取調べた赤羽目勉ほか一名作成の鑑定書によれば、同女は軽度の精神遅滞児で、その精神年齢は本件当時七歳ないし七歳半程度であって、原審における証言時の生活年令は一七歳九月(第一回、昭和五五年一月)ないしは一九歳(第五回、昭和五六年四月)であり、その時点での精神年令は不明であるが、前掲鑑定書によれば、本件後三年を経過した昭和五二年四月の時点での精神年齢は八歳四月程度である。

(二) 原審における供述

(1) その要旨

本件当夜、ディルームで「キャシャーン」を全部見てから「イナズマン」の途中で「さくら」に戻ったところ、室内にAとHがおり、青色セーター、茶色ズボン姿のAが押入れの上にいて、Hが畳のところにいて二人で遊んでいた。パジャマに着替えて、先に自分が廊下側に敷いておいた布団に入り、頭をディルーム側に、顔を廊下側に向けて横になっていたところ、この日より前にAを「さくら」に呼びにきたことのなかったGが廊下側入口の板のところまで入ってきて、Aに「寝よう」と声を掛けた。Gが室内に入ってきた時には目を瞑っていたのでGの姿は見なかったが、声で判った。Gの呼び掛けに押入れの上にいたAは応じなかったため、Gは帰り、Aは押入れの上から下りた。その後、この日より前にAを「さくら」に呼びにきたことのなかった被告人がディルームの方から「さくら」にきて、部屋には入らなかったが、Aに「おいで」と声を掛けたところ、Aは部屋から出て行った。このことは目を瞑っていたので見ていないが、足音や声で判った。Aが出て行った後、廊下側の入口の戸が開いたままになっていたので閉めようとおもい、戸の所まで行った時に女子棟廊下の非常口の方を見たところ、廊下に黒色オーバー、紺色ジーパン姿の被告人とAがいて、「ぼたん」と「ばら」の部屋の境目付近をAが前、被告人が後ろになって非常口の方に歩いて行くのが見えた。それ以上二人を見ることもなく戸を閉めて布団に入った。その後、西田先生と岡先生が「さくら」の部屋に捜しにきた。このことも声で判った。

(2) 証人尋問の状況

Cに対する証人尋問は、期日外尋問としていずれも神戸地方裁判所尼崎支部会議室で行われ、第一回は昭和五五年一月一四日(尋問に要した時間は不明)、第二回は同年二月四日午前一一時三〇分から午後一時五分までの間、第三回は昭和五六年二月一九日午前一〇時五分から一一時三五分までと午後一時一〇分から午後五時五分までの間、第四回は同年三月一九日午前一〇時三分から一一時三九分までと午後一時三分から午後四時二〇分までの間、第五回は同年四月一六日午後一時一三分から六時八分までの間それぞれ行われ、各尋問には検察官が三名ないし五名、弁護人が一五名ないし二六名出席した。

また、各尋問においては、本証人が極めて重要な証人であったことから止むを得ないこととはいえ、冒頭から当事者双方の激しい異議の応酬が相次ぎ、このような状況の下で、Cは泣き出したり(第一回の半ばころと第三回の前半、第四回の後半等)、泣きながら部屋を出て行ってしまったり(第一回の後半)、あるいは「どっち言うたらええかわからへん、もう」といって泣き出す(第一回の最後)などしているほか、異議の後や執拗な尋問、あるいは尋問者の交代や尋問事項の変更が続くと次第に「忘れた」「判らない」などの答えや沈黙が多くなる傾向が顕著に認められた。

(3) 供述の評価

以上のとおり、Cに対する証人尋問は、争いのあるなかで期日外尋問として行われ、できるかぎり精神的圧力を受けずに穏やかな雰囲気のなかで証言させようとした裁判所の意図とはうらはらに、非公開とはいえ多数の訴訟関係人が出席し、時には大声で、時には延々と続く激しい異議の応酬の中での長時間にわたる尋問が、証言時成人に近くまで成長していたとはいえ、精神遅滞児でいまだ小学校中学年程度の年少者に等しい能力しか持ち合わせない同女に与えた精神的圧迫の強さは想像に難くない。

しかし、このような尋問の状況にもかかわらず、C自身において、概略、本件当夜、ディルームで「キャシャーン」を見たあと、「イナズマン」を途中まで見て「さくら」に帰って布団に入ったのち、GがAを迎えにきて帰り、その後被告人がAを呼びにきたこと、部屋の戸を閉めに行った際非常口の方へ二人が歩いて行くのを見た旨の供述を主尋問のみならず、反対尋問においてもこれを維持しているのは注目に値し、これが検察官において証人尋問前に行ったテストの影響によるものとは断じられない。なるほど、Cの供述には前記のとおり「忘れた」「判らない」等の答えや沈黙が多くみられ、これらが被告人によるA連れだしの場面の前後に多くみられることも事実であるけれども、右の供述の経過をみてみると、年少者に等しい同女が、前記のとおりの異議の応酬等の中で混乱し、心を閉ざし、投げやりになっていく様子が窺えるなどの証言態度に照らして考えると、前記のような「忘れた」「判らない」とか述べる部分や沈黙するなどしたことは、必ずしも、原判決が説示するような、証言を求められている事項についての同女の認識や記憶が曖昧で、自信をもった答えができないことによるものとはいえない。

ところで、Cの前記供述が、捜査段階における不当な誘導等による取調べによって供述した結果、これに影響され、あるいはその際述べた供述に固執しているものとも考えられないこともないので、以下に捜査段階の供述経過や内容について検討したうえ、その点について究明することとする。

(三) 捜査段階における供述

(1) その時期と要旨

第一次捜査

〈1〉昭和四九年三月二七日

夕方、「さくら」の部屋でI、H、Aの四人でトランプをしていると、被告人が「A君ちょっとおいで」といってAと手をつないで部屋から出て行った。そのあとIは自分の部屋に戻り、自分とHは布団に入った。(〈証拠〉)

〈2〉 同年四月三日

「キャシャーン」を見たのち「さくら」の部屋へ帰った。AとHがいた。GがきたがAは手を上げて怒った。その後女の先生がきた。顔は見ていないが廊下で声がした。そのあと寝たが、被告人や岡先生、乙先生、西田先生、神代さんがAを捜しにきた。(〈証拠〉)

〈3〉 同月四日

「キャシャーン」を見たのち、七時三〇分から「イナズマン」を少し見たが眠くなったので、「さくら」の部屋に帰った。AとHが押入れに入って遊んでいた。布団に入ったあとGがきたがAは帰らなかった。女の先生がきたが被告人だった。玄関と反対の方からきた。被告人は入口に立って「Aおいで」と言った。Aは被告人のあとについて玄関と反対の方に行った。部屋の入口の戸の所まで見に行った。被告人が外へ出たのは見ていない。(〈証拠〉)

〈4〉 同月八日

「キャシャーン」が終わり、西田先生が「イナズマン」に変えたあと、眠くなったので「さくら」の部屋に帰って布団に入った。場所は入口に近い方。AとHが押入れに入って遊んでいた。GがAを呼びにきて「寝よう」と言ったがAは押入れの中でイヤと言っていた。Gが帰ったあと、被告人がきてAに「おいで」と言った。Aは被告人のあとをついて玄関と反対の方に行った。Aが部屋の戸を閉めていかなかったので、起きて閉めに行った時、玄関と反対の方に行く二人を見た。(〈証拠〉)

〈5〉 同月一四日

被告人は玄関と反対の方向から来た。被告人は見ていないが声で判った。「A君おいで」と言った。Aが被告人のあとをついていったので、入口の戸を閉めにいった。被告人のうしろをAがついて玄関の反対の方へ行っていた。(〈証拠〉)

〈6〉 同月二〇日

玄関の反対側から被告人がきて、部屋の外からAを呼び、また玄関とは反対側の方へ行った。被告人はAの手を引いておらず、Aが後ろからついて行った。(〈証拠〉)

〈7〉 同年五月二一日

(「イナズマン」のビデオをみせられ)約八分三秒の場面まで見ている。「さくら」の部屋に帰るとAとHが押入れの上段で遊んでいた。部屋に帰ってしばらくしてからGがAを「寝よう」と呼びにきた。Aは怒って帰らなかった。Gは部屋の戸を開けたまま帰った。AとHは押入れから下りて遊んでいた。眠くなったので布団に入り、部屋の入口の方に顔を向けて目を瞑った。間もなく被告人が玄関と反対の方向からきた。目を瞑っていたので被告人の顔は見ていないが、足音とAを呼ぶ声で判った。Aは枕元を通って廊下に出た。部屋の戸が開いたままだったので閉めに行った時、被告人とAの後ろ姿を見た。「ぼたん」の部屋の入口の辺りを歩いていた。その後眠ってしまったので部屋に誰かきたのは判らない。被告人はジーパンをはいていた。(〈証拠〉)

〈8〉 同月二九日

「イナズマン」が終わったのでGがAを呼びにきたと思う。「イナズマン」が終わると小学生は寝なければならないので。以前にGがAを呼びにきたことはない。Gが帰ったあと、被告人がきてAを呼んだ。Aはすぐ出ていった。部屋の戸を閉めに行き、右の方を見たら被告人の後ろをAがついて歩いていた。(〈証拠〉)

〈9〉 同年六月一二日

Gが迎えにきたのは午後八時のベルが鳴ったあと。被告人がきたのはGがきたすぐあとではないが、どのくらいあとかは判らない。(〈証拠〉)

〈10〉 同年八月二日

事件当日の朝、松川先生に言われてAに青色のセーターと黒ズボンを着せた。この日の夜、Aは「さくら」の部屋では青色のセーターを着ていたがズボンは朝はかせたのとは違うのをはいていたが、どんなズボンか判らない。被告人がAを連れにきた時、帽子のついた黒いオーバーを着ていた。その他の時に被告人がそのオーバーを着ているのを見たことはない。(〈証拠〉)

〈11〉 同月三〇日

事件当日の朝松川先生に言われてAに青いセーターとズボンを着せた。その夜「さくら」の部屋でAとHが遊んでいる時、Aはそのセーターを着ていた。(〈証拠〉)

第二次捜査

〈12〉 昭和五二年五月五日

「イナズマン」の途中で「さくら」の部屋に戻った。AとHが遊んでいた。Gがきて部屋の入口の戸のすぐ内側の板の所まで入り、Aに「寝よう」と言った。Aがイヤというような態度をとったので、Gは帰って行った。被告人の呼ぶ声が聞こえた。「A寝よう」と言ったと思う。その際の被告人やAは目を瞑っていたので見ていない。その後、目を開けると部屋の戸が開いていたので閉めに立った。廊下を見ると被告人とAがディルームと反対の方向に歩いていた。被告人が後ろでAが前。端から二番目位の部屋の前辺り。Gがきてから被告人がくるまでの時間は覚えていない。Aが出て行ったのは午後八時のチャイムが鳴ったあとだが、どのくらいあとかは覚えていない。戸を閉めて寝たあとに岡先生と西田先生が別々に部屋にきた。この日以外に被告人がAを呼びにきたことはないし、Aを捜したこともない。(〈証拠〉)

〈13〉 同月一六日

ディルームから部屋に戻った時、Aは押入れの上段に、Hは布団の上にいた。寝巻に着替え、布団に顔を廊下の方に向けて横になった。Gがきた時、Aは押入れの上段にいた。Gが「寝よう」と言うとイヤというように手を振り上げた。その後Aは押入れから下りてHと遊んでいた。廊下の方から被告人のAを呼ぶ声がして、Aが出ていった。起きて部屋の戸を閉めに行き、被告人とAが歩いているのを見た。(〈証拠〉)

〈14〉 同年六月三日

被告人はパーマをかけていない。学園でパーマをかけていないのは被告人と岡先生。髪は被告人の方が長く、服の襟のところまであった。背は岡先生の方が高い。廊下で見た女の人はパーマをかけておらず、髪の毛は襟の辺りまであり、背は被告人くらいであった。(〈証拠〉)

(2) 事情聴取の状況

Cに対する事情聴取の状況は、原審証人山科勢一、同樋口禎志、同逢坂貞夫、当審証人大内幸人、同Jの各供述及び前掲各供述調書、捜査復命書によれば以下のとおりである。

〈1〉 兵庫県警捜査一課巡査部長森下善治ほか一名は昭和四九年三月二七日Cに対する事情聴取を行った結果、同女から前記(1)〈1〉の情報を得た。

〈2〉 これとは別に、西宮警察署から捜査一課に派遣された警部補大内幸人は、同年四月二日Gに対する事情聴取を行った際、同人から、事件当夜Aを寝かせるため「さくら」の部屋に迎えに行ったが、Aが怒って帰らなかった旨の供述を得たことから、上司の指示を受けて「さくら」の部屋に起居するCに対する事情聴取を行うことになった。同月三日、大内及び同署巡査本村誠彦の両名は、当時Cは学園から親元に帰っており、その日は父親がその妹J夫婦(Cの叔母夫婦で、一時Cを引き取って養育していた者)と一緒に伐木作業を行っていた神戸市兵庫区楠谷町神戸市水道局奥平野浄化管理事務所付近の山中に同行していたことから、同日午後一時三〇分ころ同所にCを訪ね、Jに立会いを依頼して午後三時ころまでCからの事情聴取を行ったが、Jはこの間の半分程度は作業の関係でその場を離れていた。大内らの事情聴取に対しCは口が重く、当初は殆ど答えなかったが、次第に話すようになり、本件当夜ディルームでテレビを見たことから順を追って何回か尋ねるうち、ぽつりぽつり答えるようになり、結局前記(1)〈2〉の供述が得られたが、「女の先生」が誰なのかについては供述が得られなかった。大内らは前記のとおりJが作業の都合で事情聴取をしている場所から離れることがあったことから、供述調書作成の際には、同女を立ち会わせたうえ改めてCに対して問いを発してその答えを得て供述調書を作成した。

〈3〉 翌四日午前一一時ころ、大内警部補及び本村巡査部長は再び前記楠谷の山中にCを訪ね、Jに立会を依頼して事情聴取を行ったが、Cの様子が固く、前日話をした「女の先生」について聞いたが「知らない」と言うので、午前中は本村がCの遊び相手になったり、昼食を一緒にとるなどして同女との意思の疎通を図った。昼食後、本村がCと一緒に水汲みをしたりしたあと、大内が敷いてあったゴザにCと一緒に座り、同女に「学園の先生に言わんから、A君のいなくなった時のことを教えて」と尋ねると、同女は「ほんなら教えてやろか、先生に言うたらあかんよ」と言って大内の耳元に口を寄せて「○○先生や」と言った。その際Jが一緒にいなかったので、大内は同女を呼び寄せて、再び事情聴取を行った結果前記(1)〈3〉の供述が得られたのでその旨の供述調書を作成した。

Jは、思いがけないCの話に、供述調書作成後、大内等が帰ったあと、確認のために、Cに対して、目撃した事実が本当かどうか尋ねたところ、同女は間違いない旨答えた。

〈4〉 神戸地検尼崎支部検察官事務取扱副検事山科勢一は、同月八日、支部長検事からCが母親のKと共に出頭しているので事情聴取をするようにとの指示を受けるとともに、資料として前記の大内幸人作成の供述調書二通を手渡された。山科はK立会のうえでCに対する事情聴取を行ったが、当初同女は人見知りしている状態で、返事がなかなか返ってこなかったが、次第に打ち解けて供述するようになり、前記(1)〈4〉の供述が得られたのでその旨の供述調書を作成した。その後、山科は同月一四日、同月二〇日、いずれも前記尼崎支部においてK立会のうえでCに対する事情聴取を行い、それぞれ前記(1)〈5〉、〈6〉の供述を得て、その旨の各供述調書を作成した。

〈5〉 神戸地検本庁では、既に収集した証拠の検討と新しい証拠の収集を含む捜査のやりなおしをすることとなったが、その指示を受けた検事樋口禎志は、前記山科副検事の作成した供述調書の信用性を確認するためと供述内容中の時間的関係を明確にするためにCの事情聴取を行うこととした。樋口検事は、同年五月一五日から同月二〇日までの間に一回(日時は特定できない)、西宮区検でK立会のもとでCに対する事情聴取を行ったが、Cが打ち解けず、満足な供述が得られなかったことから、三〇分程度でこれを打ち切り、供述調書の作成には至らなかった。その後、樋口は、同月二一日午後二時すぎ、Cの自宅に赴いてK立会のもとで事情聴取を行ったが、その際は、Cは打ち解けており、事件当夜の時間を特定するために「イナズマン」のビデオをみせるなどしたのち、前記(1)〈7〉の供述が得られたので、次いで、同日午後五時三〇分ころ、同女を甲山学園に同道し、K立会のうえで供述内容を再現する実況見分を行ったのち、再びCの自宅にもどり、K立会のうえで供述調書を作成した。さらにその後も、樋口は、同月二九日、同年八月三〇日、いずれもCの自宅においてK立会のうえCに対する事情聴取を行い、前記(1)〈8〉、〈11〉の供述を得て、各供述調書を作成した。なお、この間、大内幸人警部補も、同年六月一二日、同年八月二日、いずれもCの自宅においてK立会のうえCに対する事情聴取を行い、前記(1)〈9〉、〈10〉の供述を得て、各供述調書を作成している。

〈6〉 神戸地検における第二次捜査の主任検察官逢坂貞夫は、第一次捜査の証拠を検討した結果、Cについては第一次捜査において供述が得られていることから、改めて警察に事情聴取を依頼することなく、自らその信用性を確認する意味で同女に対する事情聴取を行うことにし、同検事は、昭和五五年五月五日、西宮区検においてK立会いのもとでCに対する事情聴取を行ったが、当初Cは打ち解けなかったものの、同女の能力を確かめる意味もあって絵や数字を書かせたりするうち、次第に打ち解け、前記(1)〈12〉の供述が得られ、その旨の供述調書を作成した。その後、同月一六日、同年六月三日にいずれも西宮区検でK立会のもとでCに対する事情聴取を行い、前記(1)〈13〉、〈14〉の供述が得られ、その旨の各供述調書を作成した。

(3) 供述の評価

以上の事情聴取の経過を見てみると、Cに対する最初の本格的な事情聴取である昭和四九年四月三日、同月四日の事情聴取の方法は、同女が年少者であることを念頭においた慎重なものといえ、そこには虚偽の供述を引き出す原因は窺われないし、ことにCが「Aを連れ出した女の先生は被告人である」と最初に供述する場面は、これまで胸につかえて閉ざしていた思いが、貝が周囲を気にしながら口を開くように述べ出したもので、慎重のうちにも極めて自然なものであったことが看取できる。ただ、立会人のJが事情聴取の場を離れていることが多かったことから、大内警部補らが、Cの三月二七日の事情聴取の際の供述内容やGから得た情報をもとに、供述を押しつけ、あるいは誘導したのではないかとの疑いも持たれるところであるが、もし、大内らにおいてこれをするのであれば、とりわけCが三月二七日の事情聴取の際に既に被告人がAを呼びにきたことを供述していることを告げて誘導すれば、四月三日の時点で、容易に被告人によるA連れ出し等の供述が得られたはずであるのに、その事実に関する供述が容易に出なかった状況にあることや、また、四月四日の供述内容にしても、被告人がAを呼びにきた時の状況や非常口の方へ歩いて行く二人の様子、さらにはそれらを知ったときや目撃した際のC自身の行動等は誘導や作文できない事実であること等からすれば、Cの前記供述が大内らによる誘導等によるものとは考えられないし、そして、その後に行われた各捜査官による事情聴取においても、各関係人の証言をみてもその都度母親のKが立会をしていて、供述の押しつけや誘導の事実を疑うような事情は窺えないのみか、一方、Cの供述能力を考えると、C自身意識的に虚偽の供述をする理由は見当たらない。(なお、前掲鑑定書は、Cには何らかの動機をもってでたらめな供述をする意図がある場合でも、架空の出来事を合理的に構成する能力が極めて乏しいためその目的を達成することはできないとする。)

そして、供述内容をみてみても、供述に若干の変遷はあるものの、Cはいまだ捜査当局が本件の犯人像を絞り切れていなかった昭和四九年三月二七日の段階で、既に被告人がAを「さくら」に呼びにきた旨を供述し、その後一貫してその供述を維持しているのである。してみると、前記公判供述、ことに被告人がAを呼びにきて、同人とともに非常口の方へ行った旨の重要で核心的な事実については、捜査段階における不当な取調べの影響等によるものと疑うべき事情は見当たらず、同女は感知目撃した事実をそのまま供述しているものと考えられる。

(四) 原判決の提起する疑問に対する判断

そこで、以下にその供述内容等について、原判決がその信用性について疑問を提起している諸点を中心に検討することとする。

(1) Cは、Aの行方が判らなくなった直後、同人を捜しに「さくら」の部屋に来た学園職員に対し何も答えていないのは不自然である、という。

しかしながら、原審証人岡紀代の各供述によれば、Cに対してはそもそも十分な問い掛けがなされておらず、かつ、Cは既に寝っていたというのであるから、年少者でもある同女がこれに対して何も答えなかったとしても不自然とは言えない。

(2) 昭和四九年三月二七日の「Iが加わってトランプをした」旨の供述は、四月四日以降の「『イナズマン』を少し見て眠くなったので『さくら』の部屋に帰ったところ、AがHと遊んでいたが、自分は布団に入った」旨の供述とその場面を著しく異にし、同女が三月一九日の出来事として話したものか疑問があり、それ故に三月一九日のことを聞かれていることが明らかにされている四月三日、四日の事情聴取の段階で自信をもって被告人の来室の事実を述べるのに躊躇したのではないか、という。

しかしながら、前掲捜査復命書によれば、三月二七日、森下等は三月一七日と三月一九日のCの行動について事情聴取しているところ、三月一七日の項には「この日の特定は右園児には困難のためBちゃんがいなくなった日ということで聴取している」旨の記載があることからしても、三月一九日の項には右のような記載はないものの、当然「Aがいなくなった日」ということで日を特定して聴取したことが窺えること、遊びの場面は右の事情聴取が聞込みの一還として概括的に行われたもので、十分に詰めた質問がなされなかったことに起因して違いが生じたものと考えられること、四月三日、四日の供述の経緯は、前記のとおりであって、その供述の経過をみると記憶が曖昧であるために供述を躊躇したというよりも、警察官との意思の疎通の欠如や保母である被告人に対する憚りによるものと認められることなどからすれば、右の疑問は当たらない。

(3) 昭和四九年四月四日、同月八日の事情聴取の際には、被告人がAを呼びにきた場面を「目で見た」と解される趣旨の供述をしながら、同月一四日以降の事情聴取の際には「声や足音で聞き分けた」旨供述しているけれども、Cは「さくら」部屋の廊下側に敷いてあった布団に入り、頭をディルーム側、顔を廊下側に向けて横になっていたというのであり、また、被告人は当日宿直勤務でなかったものであるから、目を開けて見たとしてもCにとって不都合もなかったもので、仮に不都合があるとすれば、誰にも気付かれないようにAを呼び出したうえ、これに危害を加えようとした犯人にとって思わざる障害と考えられるだけであり、さらには、Cが目を開けて顔を見られている状況下で被告人がAを呼び出したとすれば、その主張するようなストーリーの出発点で重大な蹉跌に直面する捜査官が苦しい立場に追い込まれるだけであることからすれば、右の供述の変遷は不自然である、という。

しかしながら、Cは最初の本格的な事情聴取である四月三日には既に「女の先生の顔は見ていない」「廊下で声がした」旨明確に供述していること、Cの四月四日、八日の供述は、原判決が解するようなAを「さくら」の部屋に呼びにきた際の被告人を「目で見た」という趣旨を述べるものではなく、Aを連れ出した女の先生については、その声ばかりでなく、非常口の方にAと歩いていく姿から被告人であることが判ったという意味の供述をするものであるから、あえてAを呼んだ時点での被告人は見ていないとまで言う必要はなかったし、また、既に眠くて布団に入っていた子供のCが、当日の宿直の保母でなかったにしろ、部外者でなく、自分に用事できたわけでもない被告人の声を聞いたからといってあえて目を開けて見なかったとしても、これをもって不自然であるとまではいえないこと、本件犯行の時刻を午後八時ころとする時間帯は、宿直の指導員や保母ばかりでなく、園児の多くがディルームでテレビを見たり、居室で起きている状況下にあって、Aを連れ出すこと自体は目撃される可能性の高かったものであるから、犯人としてもそのことは覚悟のうえと考えられるし、捜査当局にしても、犯人がA連れ出しの時点からCに目撃されていたとすれば、それはそれとして証拠として重要な価値を持つものであり、これを前提とした捜査は十分考えられるところであり、あえて原判決の言わんとするようなストーリーを作ったうえ、誘導等によってその点のCの供述を変えさせる必要はなかったものというべきであること等からすれば、右の疑問は当たらない。

(4) 被告人が来た方向や被告人とAが歩いて行く方向を足音で聞き分けた旨供述しているけれども、被告人の姿を目で確かめるなどの自然の所作に出ず、しかも眠気におそわれていたCが足音に注意するほどの関心を示したのは不自然である、というのである。

しかしながら、Cが目を開けなかったことが不自然と言えないことは前記のとおりであるし、同女は廊下側に敷かれた布団に顔を廊下の方に向けて(片方の耳を下にして)横になっていたというのであるから、格別耳をすますなどするまでもなく板張りの廊下を歩く足音が聞こえたとしても何ら不自然ではないものといわざるをえない。

(5) 女子棟「ぼたん」の部屋の前付近を被告人とAが歩いていた旨の供述についても、昭和四九年五月二一日の事情聴取の際には「ジーパンをはいていた」旨供述していたのに、同年八月二日の段階では「帽子のついた黒いオーバーを着ていた」と供述し、昭和五二年六月三日の段階では、被告人は「パーマをかけていなかった。髪の毛は襟のところまであった」旨詳細な供述をし、また、被告人とAの位置についても、従前被告人が前、Aが後と供述していたのに、昭和五二年五月五日以降はAが前、被告人が後と供述を変えており、これらはいずれも取調官の誘導等により、その意に副う供述が作り上げられた疑いが払拭しがたい、というのである。

しかしながら、右の原判決が指摘する被告人の着衣や髪型についての供述については、Cの前記の供述及び事情聴取の経過から窺われるように、同女は事情聴取する者との意思の疎通がはかられ、十分な質問をすれば記憶を喚起して供述できるものであるし、取調べの都度尋ね方によって供述が詳細になることは必ずしも不自然なことではないから、尋問の当初に答えられなかったこととか、あるいは時間を経過しての供述であることのみをもって直ちに誘導の結果であると考えるのは妥当でなく、他に原判決のいう疑問を差し挟む資料もないこと、被告人とAの位置関係については、原判決が指摘するとおり、Cの供述に変遷はあるが、Dのいわゆる「新供述」は昭和五二年五月七日に得られたものであり、同月五日におけるCに対する事情聴取の時点での証拠関係からすれば、「被告人が後」「Aが前」としなければならない事情は全くなかったものであって、しかも供述の変遷という指摘を受ける危険を犯してまであえてCの供述を変更させる必要はなかったものであり、そのことはかえって同女の供述するままに録取したものと評価しうるものであって、原判決がいうような疑問は当たらない。

(6) 被告人がきた方向について、捜査段階では一貫して「玄関(ディル-ム)と反対の方向からきた」旨供述しながら、証人尋問の際には、「ディルームの方向からきた」旨供述し、また、GがAを迎えにきた前後の状況について、捜査段階では「Gがきた際、Aは怒って手を上げていた」旨供述していたのに対し、証人尋問の際には「Gがきた時目を瞑っており、Gの行動は声や音で判った。Aのことも見ていない」旨供述するなど、その供述に変遷があるうえ、その変遷について合理的な説明がない、というのである。

なるほど、原判決指摘のとおりCの供述には変遷はあるけれども、それは先に説示したとおり原審における証人尋問はCにとっては過酷なものであって、十分記憶を辿って冷静に供述できる状況になかったことに起因するものと思われる。ただ、このような状況の中においても、GがAを呼びにきたあと被告人がAを呼びにきたこと、女子棟廊下を非常口の方へ歩いていく被告人とAを見た等の基本的な部分では供述が一貫していることをあわせ考えると、右の供述の変遷は供述全体の信用性に影響を与えるまでのものとはいえない。

以上みてきたように、Cの供述には変遷等があるものの、いずれも供述全体の信用性に影響するものとはいえないこと、ことに極めて過酷な証人尋問であったにもかかわらず基本的な部分については捜査段階からの供述を維持していること、捜査段階における事情聴取の方法に虚偽供述を生み出す原因とおもわれる事情は窺われず、いまだ捜査当局が本件の犯人像を絞り切れていなかった昭和四九年三月二七日の段階で、既に被告人がAを「さくら」の部屋に呼びにきた旨を供述し、その後一貫してその供述を維持していること、そしてCの目撃した事実は、同じ青葉寮で起居を共にし、姿形や声等を十分知り尽くしている園児及び保母の一連の単純な行動についてのものであって、そのこと自体は同女の能力をもって十分識別できる性質のもので、かつ至近距離での出来事であり、しかも明かりのあった現場の状況からすれば誤認する可能性のないこと等を考え合わせると、Cの目撃供述は、原判決が指摘するような理由をもって捜査・公判を通じその供述の信用性を一概に否定しえないものといわざるをえない。

2  Dの供述について

(一) D(昭和三六年一二月二五日生)は昭和四四年四月から前記のとおり甲山学園に在園し、青葉寮「くす」の部屋に起居する園児で、本件当時の生活年齢は一二歳三月で、当審で取調べた武貞昌志ほか一名作成の鑑定書、一谷彊作成の鑑定書によれば、同人は中等度の精神遅滞児で、その精神年齢は本件当時五歳半ないしは六歳程度であり、原審における証言時の生活年齢は一八歳一月(第一回、昭和五五年二月)ないしは一九歳九月(第六回、昭和五五年一〇月)であり、その時点における精神年齢は不明であるが、前掲鑑定書によれば、本件後約三年半を経過した昭和五二年八月の時点での精神年齢は六歳ないしは七歳であって、D自身は、具体的で直接体験しえる事実で単純なものであれば観察し弁別する能力及びこれを他人に伝達する表現能力がある。

(二) 原審における供述

(1) その要旨

本件当夜、ディルームで「イナズマン」を見ている時にGがAを「さくら」の部屋に連れていくのを見たのち、父さんからの電話がかかってきたので男子保母室に行った。電話を終えてからディルームに戻ってテレビを見た。「イナズマン」の予告編が終わってから男子棟の便所に行き、そこでGに会い、同人から「Aが帰らない」と聞かされたのでAを連れに女子棟の方へ行った時、女子棟廊下の「ぼたん」の部屋の前辺りに被告人がAの背中を押すようにして非常口の方へ歩いているのが見えたが、怖かったので女子便所に入って見た。Aは非常口の所でしゃがみこみ、被告人がAの脇の下に両手を入れて立たせようとしたがAは嫌がり、よつんばいになって「ばら」の部屋の前辺りまで這ってきた。被告人はAの後ろから歩いてきてAの両足首を掴んで非常口の所まで引っ張っていき、戸を開けようとしてAの片足を放した時、Aが被告人の顔を蹴った。それから被告人は戸を開けAと出ていった。戸はすぐ閉まった。Aが被告人の顔を蹴った時に被告人の顔が見え、被告人に間違いなかった。戸が閉まったあとすぐ非常口の所に行き、戸に触ったが開かず、横の窓から外を見たり、女子棟洗面所の上にあがって横の窓から裏を見たが、暗くて見えなかった。それからディルームの玄関の方を通って「くす」の部屋に帰った。寝巻に着替えて布団に入ったのち、西田先生がAを捜しにきたが、もし見たことを言ったら被告人にAと同じように連れていかれると思い、怖かったのでAが連れていかれるのを見たことは言わなかった。警察官等に被告人がAを連れていったことをすぐに話さなかったのは、乙先生に口止めされたことや父さんから「いらんことはいうな」と言われたことと、被告人が怖かったためである。

(2) 証人尋問の状況

Dに対する証人尋問は、期日外尋問として神戸地方裁判所尼崎支部会議室(第一回ないし第五回)及び同地裁姫路支部会議室(第六回)で行われ、第一回は昭和五五年二月四日午後二時一〇分から午後三時五〇分までの間、第二回は同年六月四日午前一〇時二〇分から午後零時四分までと午後一時一八分から午後四時四六分までの間、第三回は同月二五日午前一〇時五分から午後零時までと午後一時三分から午後三時五七分までの間、第四回は同年七月一六日午前一〇時五分から午後一時までと午後二時五分から午後五時五分までの間、第五回は同年九月一〇日午前一〇時五分から午後零時一二分までと午後一時一五分から午後五時五分までの間、第六回は同年一〇月八日午前一〇時三八分から午後零時二一分までと午後一時二二分から午後六時五〇分までの間それぞれ行われ、各尋問には検察官が二名ないし三名、弁護人が一六名ないし二七名が出席した。

Dは、検察官の目撃状況についての主尋問には概ねスムーズに答えたものの、弁護人の反対尋問に対しては「知らない」「判らない」という答えや沈黙が多く見られたが、それらの傾向は、反対尋問の性質上あるいは本証人の重要性からすればやむをえないこととはいえ、目撃状況や学園生活以外の、証人尋問に先立つ検察官のテストの状況や捜査段階における事情聴取の状況、供述の食い違い等についての多数の弁護人による多方面からの尋問の際や、弁護人による弾劾的あるいは糾問的・命令的とも思われる尋問の後に顕著である。また、その尋問は第一回を除き午前、午後にわたり、時に一日約七時間、終了時間が午後六時五〇分までにもおよんだり、あるいは休憩・昼食を与えることなく連続して三時間にわたるなど、証言時既に肉体的には成人近くまで成長していたとはいえ、中等度の精神遅滞児で、いまだ小学校低学年に等しい能力しかないDにとって極めて過酷なものであり、各個の尋問内容をみても、証人であるとはいえ精神遅滞児であるDに対する尋問方法としては配慮を欠いたもので適切であったとはいえないものであったし、六回にわたる尋問を通じてみても、前記のように多数の弁護人によって行われる、事情聴取の状況等その場で初めて聴かれる非日常的な事実についての詳細な尋問や、時には弾劾的あるいは命令的とも思われる尋問を受ける中で、D自身尋問内容を理解し得ない状況となり、混乱状態に陥り、次第に尋問者に反感を抱き、投げ遣りになっていったことが窺える。そして、このことはDの父親である当審証人Lの供述によって認められる。DがLに対し、証人尋問について「どう答えたらいいかわからへん」と述べたり、すねて出頭を嫌がっていたことからも窺えるところである。

(3) 供述の評価

前記のような尋問の状況をみてみると、弁護人の質問について「知らない」「判らない」旨の答えや沈黙が多く見られるのは、能力的に限界のあるDが前記のような心理状態に陥った結果であって、この点に関し原判決が真摯な供述態度の欠如によるものと説示するところは、Dの能力やその証人尋問の状況を正視しない速断であって到底是認できない。一方、検察官の尋問に対して概ねスムーズに答えたことが検察官による事前のテストの影響や検察官に対する迎合の結果であると疑う事情も見当たらないのみか、そのうえ、D自身前記のような尋問状況の中で、主尋問、反対尋問を通じて概ね前記のような事実を供述したことは、同人の能力を考えると注目すべきことである。

そこで、右Dの証言が、捜査段階での不当な取調べに影響されたものであるかどうかの点について検討するに、とりわけ、同人は第一次捜査においては、本件当夜被告人がAを連れ出す場面を自ら目撃した旨の供述は一切していなかったにもかかわらず、本件後約三年を経過したのちに至って初めて、重要なしかも詳細な目撃事実を供述しているものであって、その供述の経緯が極めて特異であるので、事情聴取の際の誘導等不当な取調べの有無のほか、供述するまでの間の他からの情報による影響の有無、Dをしてそれまで口を閉ざしめていた事情の有無等についての慎重な検討が必要である。そこで以下において捜査段階における供述の経過や内容を子細に検討し、これらの点が納得しうるものであるか否かについて考究することとする。

(三) 捜査段階における供述

(1) その時期と要旨

第一次捜査

〈1〉 昭和四九年三月二六日

本件当日の午後七時ころから八時ころまでの間テレビをみていた。AはCの部屋で、C、I、Hと四人で先生ごっこをしていた。自分はこれに加わらずにテレビを見ていたが、時々見にいった。午後八時ころCの部屋に行くとAはいなかった。パジャマを着ている時先生が「Aちゃんがいなくなった」と言って懐中電灯を持ち、押入れや便所などをさがしていた。その後寝た。(〈証拠〉)

〈2〉 同年四月二日

午後七時から「キャシャーン」を見ていた。その時、AはCの部屋でC、M、H、I、Nと先生ごっこをして遊んでいた。午後七時三〇分に西田先生が「イナズマン」にチャンネルを変えたので見ていると、西田先生が「父さんから電話」と呼びにきたので、男子保母室に行った。その時、Aは「イナズマン」を見ていた。一〇分位父さんと話して戻ると、「イナズマン」は予告編をやっており、Aはいなかった。午後八時には小学生はテレビを見られないので部屋へ帰って寝た。テレビを見ていた時のAの服装はうす茶色に白い縦のすじのはいった襟の大きいセーターと黒ズボンだった。(〈証拠〉)

〈3〉 同月一一日

「イナズマン」を見ている時、AはC、H、M、I、N等と一緒に遊んだり、ディルームでテレビを見たりしていた。午後八時すこし前、西田先生が父さんからの電話を取り次いでくれた。その時、Aはディルームでテレビを見ていた。一〇分位電話をしてディルームに戻ると、「イナズマン」は予告編をやっており、Aはいなかった。寝る時間だったので、歯を磨いて寝た。西田先生が捜していた。翌朝、食事に行くときOからAがいなくなったことを聞いた。(〈証拠〉)

〈4〉 同年五月二五日

電話がかかってきたのは「イナズマン」が始まって間もなく。西田先生が取り次いでくれた。「イナズマン」が終わると、岡先生が「時間だからはよ寝えや」と言ったので、すぐ部屋に帰った。着替えをしたり便所にいったりしてから寝た。(〈証拠〉)

〈5〉 昭和五〇年五月七日

自分はなにも見ていないが、Oは知っていると思う。Oから「Aは女子棟の廊下を歩いて出ていった」と聞いた。Aは一人で出ることはできない恐がりやである。廊下には鍵がかかっているから一人では出られない。それしか知らない。(〈証拠〉)

〈6〉 昭和五〇年八月八日

被告人が警察から帰ってきた時、被告人に「先生、A君とBちゃんを殺したやろ」といった。被告人は怒って「いや殺していない、言うたらあかん」と言っていた。被告人が殺したということはOから聞いた。Oは「知っとったけれど誰にも言えへんかった」といっていた。去年学園にいる時、O、Pらと一緒に乙先生からタイヤを持たされ、断ったら投げ飛ばされて怪我をした。乙先生は怖い。(〈証拠〉)

第二次捜査

〈7〉 昭和五二年五月七日

午後七時からディルームでテレビを見た。P、Q、R、N、S、T、Uらがいた。「イナズマン」を見ている時、西田先生が電話を取り次いでくれた。父さんからだった。「イナズマン」が変身して人間に変わった場面で、GがAをつれて男子寮の方からテレビの後ろを通って女子寮の「さくら」の部屋に入った。Oも「さくら」の部屋で遊んでいたようだった。「イナズマン」の予告編が始まったころ、部屋に帰るため男子保母室の前を歩いている時、Gが一人で女子寮の方からきたのに出会った。「Aきけへんから」と言っていた。Gに「そしたら先に帰っときや」と言って、Aを呼びに行こうと思って女子保母室の前で女子寮を見た時、一番端の部屋の前をAが非常口の方へ歩いており、そのあとから女の人がAの両肩を押していた。Aは嫌がる仕種で座り込み、女の人は、Aの丸首のセーターの後ろの襟首を掴んで立たせようとしていた。女の人は、前かがみになってAの両足を持って戸の方に引っ張った。女の人は被告人だった。Aは被告人を蹴って暴れていたが、被告人はAの両足を持って外へ引きずり出した。非常口まで行ったが、外を見るのが怖くて部屋に帰って布団に入った。西田先生が「Aおらへんか、何処いった」と聞きにきたが、知らないと嘘を付いた。被告人が怖く、本当のことを言うと怒られると思ったから。被告人の服装は頭に袋のついた黒っぽいコート、色は忘れたがズボン、黒っぽい靴、右の肩にハンドバッグの様なものを掛けており、Aは白い線の入った丸首のセーターだった。今まで本当のことを言わなかったのは、父さんから「言うな」と言われていたことと被告人が怖かったから。(〈証拠〉)

〈8〉 同月一〇日

ディルームで「イナズマン」を見ている時、西田先生が父さんからの電話を取り次いでくれた。「イナズマン」を見ている時、GがAをCの部屋に連れていくのを見ている。そのあとGはディルームに戻った。「イナズマン」は予告編のところまで見た。男子棟の便所の前でGに会ったが「AはCちゃんの部屋から帰らない」と言っていた。Aを呼びに行こうと思い、ディルームと女子保母室の境の辺りで、大人の女の人がAを後ろから非常口の方へ押していくのが見えた。被告人だった。女子棟の一番端の部屋の前だった。被告人は両手でAの肩を押していた。Aは「アン・アン」と声を出して嫌がっていた。被告人は出口の戸を開けて外に出て、かがんでAの両足を持って引きずり出した。被告人は顔を蹴られていた。そのあと、部屋に帰って布団に入った。西田先生が「Aおらんか」と聞きにきたが、「知らん」と答えた。被告人が怖かったので。その時の被告人の服装は頭に袋のついた黒のコートとズボンで靴をはき、肩から鞄を掛けており、Aは色は覚えていないがセーターと黒の長ズボンだった。父さんから「いらんこと言うな」と言われたし、被告人が怖かったので本当のことが言えなかった。(〈証拠〉)

〈9〉 同日

西田先生がAを捜しにきてしばらくしたころ、Oと部屋の入口で会った。その時、Oは「D君がAを捜しに外に出たかと思って裏庭を見たら、裏のマンホールの蓋を開けている両方の手首から先が見えた。誰か判らなかったが、手首の所が黒い毛糸みたいだった」と言っていた。(〈証拠〉)

〈10〉 同月一一日

午後六時三〇分から七時まで「キャシャーン」、七時三〇分から八時まで「イナズマン」をやっていた。「イナズマン」を見ている時、西田先生が父さんからの電話を取り次いでくれた。岡先生はディルームでNを膝に抱いてテレビを見ていた。電話に西田先生も出てくれた。ディルームに戻るとAはいなかった。テレビを見ていると、GがAを連れて女子の部屋の方へ行くのが見えたので、自分も行ってみた。Oが「お医者さんごっこをしよう」と言ったので、部屋に入るのをやめてディルームに戻った。Gもディルームにきてテレビを見ていた。「イナズマン」の予告編を少し見たあと、男子便所で小便をし、出てきたところでGに会った。「Aが帰らんというて、いうこときかん」と言った。Gは「まつ」の部屋の方へ行った。Aを連れてこようと思い、女子保母室の戸の辺りまできた時、廊下の奥の方で女の人がAの肩か背中を押して行くのが見えた。女の人は、黒っぽいコートを着て、パンタロンの様なズボンをはいていた。Aであることは青い毛糸の服を着ていたので判った。女の人が余所の人かと思い、怖いので女子便所に入り、顔だけ出してみていた。女の人は戸を開けた。Aはディルームの方を向いて尻餅をついて座り込み、女の人が両脇に手を入れて立たせようとしていた。Aはアン・アンと嫌がっていた。Aは四つん這いになってディルームの方へ逃げると、女の人はAの両足を掴んで引きずっていった。その時、被告人と判った。Aは被告人を蹴って暴れていたが、外へ連れ出され、戸はすぐに閉められた。自分の部屋に帰るためディルームに戻ると、中学生以上の子がテレビを見ながらマーブルチョコを食べており、Oがディルームの後の椅子に乗って窓から外を見ていた。そのあと、すぐ部屋に戻って寝たが、西田先生が「Aおらんか」と尋ねたので「知らん」と答えた。被告人にAと同じことをされると思い怖かったのでそのように言った。今まで話さなかったのは被告人が怖いのと父さんから「いらんこと言うな」と言われていたから。(〈証拠〉)

〈11〉 同日

Aがいなくなってから被告人が捕まるまでの間に、乙先生からグランドでP、O、自分の三人がタイヤを持てと言われ、重かったので持たなかったら、怒られジャングルジムから落とされた。このことを父さんに言ったら物凄く怒っていた。乙先生にジャングルジムから落とされてから被告人が捕まるまでの間に、Oから「Aがいなくなった晩、ディルームから外を見ると裏のマンホールの蓋を開ける両手が見えた。良く判らなかったが黒い服を着ている手が見えた。」と聞かされた。(〈証拠〉)

〈12〉 同月一七日

「イナズマン」が変身するのは二回で、一回目は始まってから約五分後と思う。GがAをCの部屋に連れていったのは一回目の変身の直後。前回電話の後と言ったのは勘違い。Cの部屋を覗いたことは覚えていない。「イナズマン」の間、自分の部屋や男子保母室、男子便所に行ったりした。Gから「Aが帰らん」と聞いたあと便所に行ってから自分の部屋に帰り、そのあとAの部屋を見て、女子保母室の方へ行った。この間の時間は判らない。(〈証拠〉)

〈13〉 同月二一日

「イナズマン」は男の人が「サナギマン」に変身し、ついで、「イナズマン」に変身して悪者と戦い、そのあとオレンジ色の空飛ぶ車に乗って戦う話。GがAをCの部屋に連れていったのは「イナズマン」が変身する前で、Cの部屋に行ったが入らずにディルームに戻ってきてから変身した。父さんから電話があったのは変身の前か後かよくわからないがディルームに戻ってきてからで、「イナズマン」が空飛ぶ車で戦うのは電話のあと。電話は西田先生に教えられた。「イナズマン」の予告編を見てから男子便所にいったのは、それから部屋で寝るため。小学生以下の小さい子は八時に寝ることになっている。「イナズマン」を見てディルームを出るとき、小さい子は部屋へ帰って行った。ディルームには中学生以上の子が残っており、O、T、E、V、Wらがいた。便所を出たあとGに会い、Aが帰らないと聞いて「さくら」の部屋に行ったことや女子保母室の前辺りにきた時、廊下の奥の方で女の人がAの後ろから肩か背中を押して歩いているのを見たことは間違いない。その時他に誰もいなかった。Cも見ていないし「さくら」の部屋の戸は閉まっていた。女子便所に入り、しゃがんで顔だけだして奥の方を見ると、Aが非常口の方を向いて尻餅をついて座り込んだ。前回ディルームの方と言ったのは勘違い。その時Aがアン・アンと言っていたのは間違いない。Aは怒るとアン・アンという。女の人はAの後ろから両手を脇の下に入れて立たせようとしていたが、Aは砂を掴んで投げるような恰好で手を振り、四つん這いになってディルームの方へ逃げた。女の人はAの両足の下の方を掴んで非常口の方へ引きずっていった。そこでAがその人を蹴った。女の人が被告人であることは間違いない。四つん這いになって逃げるAを追い掛けてきたとき顔を見た。非常口は最初閉まっており、Aが戸まで歩いていったとき一度女の人が開けたが閉まった。風で閉まったと思う。そのあと被告人がまた戸を開け、Aの足を掴んで外へ引きずり出したあと戸を閉めた。Aが被告人を蹴ったときは被告人の手はAの足から離れた。非常口までいって外を見たが見えなかった。そのあと「くす」の部屋に帰ったが、ディルームには大きい子がいてマーブルチョコを食べていた。Oはディルームの後ろの椅子にのって窓から外を見ていた。GがAを「さくら」の部屋に連れていった時、「さくら」の部屋に入らなかったのはOの声がしたからで、「さくら」の部屋でAと遊びたかったが、以前Oに投げ飛ばされたことがあり、Oに何かやられると思ったから。(〈証拠〉)

〈14〉 同日

Aが居なくなって四日くらいあとに家に帰り、被告人が警察から帰る前に学園に戻った。家に帰っている時、警察官がきて偉そうな口をきいたので、父さんが怒って「いらんこと言うな」と言った。今回話す気になったのは、被告人が出石学園まではこないと思い安心したのと、今年の四月フラワーセンターに遠足に父さんも一緒に行った時、父さんから「警察のおじちゃんが調べにいったら、Dの知っていることを言ったらええ。しんどかったら言わんでもええ」と言ってくれたので。「被告人がBやAを殺した」ということは、被告人が警察から帰ってきた時に被告人に、また、Aの母さんが学園にきた時にそれぞれ話した。被告人が殺したと思ったのは、父さんから「被告人がAを殺したということで新聞にでている」と聞いたから。被告人に対して「Aを殺した」と言ったのは、被告人がAを廊下から連れ出さなければ殺されることもなかったと思い、可哀想だったから。Aが死んだことは学園で聞いた。(〈証拠〉)

〈15〉 同月二九日

GがAを連れてCの部屋に行くのを見たのは「イナズマン」の最初の変身のすぐあとで、父さんからの電話の前と思う。「イナズマン」の予告編を少し見て部屋に帰る時、男子便所の前辺りでGに会った。「Aが言うこときかん」と言うので、「僕がつれに行く」と言って、女子棟に行った。女子保母室の前で、女の人がAの肩を押していくのを見た。怖いので女子便所に入って見た。Aは嫌がっており、座り込んだ。女の人は後ろから抱きかかえて立たせようとしたが、Aは「アン・アン」と言っていた。女の人の顔を見たら被告人だった。被告人は黒い袋のあるコートを、Aは白い線の入ったトックリのセーターを着ていた。被告人は四つん這いになって逃げるAの足を持って引っ張り、閉まっていた戸を開けて外へ引きずり出した。自分はディルームに戻った。父さんにも話さなかったのは、被告人と乙先生が怖かったのと、父さんからも「いらんこと言うな」と言われていたから。(〈証拠〉)

〈16〉 同年六月一四日

精和園に移ってから、Aの家に行ったことがある。警察の人二人に車で連れて行ってもらった。その時、Aがいなくなった晩に、OがAが廊下から連れていかれるのを見ている、と話した。このことは、Oから聞いたのではなく、Aが被告人に連れ出されるのを見たあと自分の部屋に帰るとき、Oがディルームの裏の窓から外を見ていたので、Oが、Aが連れ出されるのを見て可哀想に思って外を見ていると思ったから。Aの家には、山崎園長、O、Tがきた。Aの兄の部屋で、Aの兄さん、母さん、O、Tらと話し合った。Oが何も言わないので「知っとるやろ、見ているやろ」と言った。(〈証拠〉)

〈17〉 同月一七日

女子保母室の前で女の人とAが歩いていくのを見たのは間違いない。女の人に見つかったら怖いと思い、女子便所に入ってしゃがんで顔を少しだけ出して見ていた。二人は奥の非常口の所に行き、Aは尻餅をついて座り、土を投げる感じで両手を振り上げ「あーん・あーん」と言っていた。女の人が後ろからAの両脇の下に手を入れて立たせようとしたが、Aは四つん這いになってディルームの方へ少し逃げた。女の人が少し俯いて追い掛けたとき、髪の毛が揺れて顔が見え、被告人と判った。被告人はAの両足を掴んで非常口の所に引きずっていき、戸を開けてAを引きずりだし、すぐ戸を閉めた。引きずられる時、Aは被告人の顔の辺りを蹴っていた。女子便所から出て、非常口まで行き、廊下の窓から外を見たが被告人もAも見えなかった。部屋に戻るためディルームにくると、中学生以上の子がマーブルチョコを食べていた。ディルームの裏の窓の椅子にOが乗り、窓を少し開けて顔を出して外を見ていた。(〈証拠〉)

〈18〉 同日

Aがいなくなった翌日、青葉寮から若葉寮に移った。隣の部屋にOとXがいた。夜寝てから、隣の部屋で、OがXに「Aが連れていかれるのをDが便所の窓から見ているのをEさんが見ていた」というと、Xは「Eさんそんなとこ見てへんやろ」と言っていた。家に帰るとき、Eに会ったので、「僕がトイレに隠れてAが連れ出されるのを見ているところを見たんか」と聞くと、Eは「D君がトイレに隠れるのを見た」と言った。「何処で見たんや」と聞くと「ディルームの畳のところから見た」といった。(〈証拠〉)

〈19〉 同年一二月二七日

被告人を目撃したことは間違いない。目撃後、ディルームには岡先生がいた。その他、O、E、T、Wらがいた。(〈証拠〉)

〈20〉 昭和五三年三月一五日

Aはいつも「さくら」の部屋で遊んでいた。被告人はいつもはピンクの保母着を着ていた。被告人はAを引っ張り出す時、黒いコートを着ていた。以前に見たことはない。「くす」の部屋に戻ると、Y、Zが布団に入っていた。パジャマに着替え、布団に入る前に西田先生が「Aおらんか」と言ってきた。Y、Z、自分も「知らん」といった。乙先生にジャングルジムから落とされたのは、(事件のあと)一旦家に帰ったあと学園に戻り、被告人が警察から戻る前のことで、乙先生から、若葉寮の食堂の前辺りにあったタイヤを青葉寮へ運べと言われたが、重かったので三歩位歩いて止め、Oに渡したら、乙先生からジャングルジムに登れと言われ、登ると落とされた。(〈証拠〉)

〈21〉 昭和五四年一二月五日

目撃したことを初めて話したのは、精和園で西村(警察官)に。西村とはその時初めて会った。以前姫路の父さんの所に帰っている時、他の警察官に聞かれて言わなかったのは、怖かったのと乙先生から「言うな」と言われていたから。乙先生には学園にいる時、園内にある市電の中で「警察や父さんに聞かれても、Aのことは言うな」と言われた。乙先生には被告人がAを連れ出すのを見たとは言っていなかったので、自分が見たのを知っているのかと思った。被告人が怖いのはAのように連れ出されて殺されると思ったから。乙先生が怖いのはジャングルジムで落とされた時のように投げられたり、蹴られると思ったから。話す気持ちになったのは、精和園では、乙先生や被告人に会うことはないし、父さんからも「警察のおじちゃんからAのことを聞かれたらちゃんと話しなさい」と言われたから。乙先生に口止めされたことは、姫路で加納検事に会ったとき初めて話した。(〈証拠〉)

(2) 事情聴取の状況

Dに対する事情聴取の状況は、原審証人逢坂貞夫、当審証人西村末春、同朝倉晃玄、同Lの各供述及び前掲各供述調書、捜査復命書のよれば以下のとおりである。

〈1〉 兵庫県警捜査第一課巡査高品静生ほか一名は、昭和四九年三月二六日Dに対する事情聴取を父親L立会いのうえで行い前記三(1)〈1〉の供述を得るとともに、Lに対する事情聴取をも行い、同人が事件当夜の午後七時四〇分ころ甲山学園に電話し、西田指導員及びDと話をした旨の供述を得た。

〈2〉 西宮警察署巡査部長宇高時雄ほか一名は、同年四月二日D方に赴き、L立会いのうえで事情聴取を行ったが、その席上、宇高でない若い警察官が、Dを犯人扱いする言辞を弄したことからLが腹を立て、Dに対し「あっちへいっとけ」「なにも言わんでよろしい」と叱りつけ、Dを隣室に下がらせる場面があった。その後、警察官が謝罪して事情聴取を続け、前記(1)〈2〉の供述を得て、その旨の供述調書を作成した。

〈3〉 その後、神戸地検尼崎支部検事村越安好が同月一一日D方でL立会いのうえで、捜査第一課巡査部長斉藤栄治郎が同年五月二五日甲山学園園長山崎種之立会いのうえで、それぞれ事情聴取を行い、前記(1)〈3〉、〈4〉の供述を得てその旨の供述調書を作成した。

〈4〉 捜査一課警部高橋亨及び警部補勝忠明は、昭和五〇年五月七日D方においてL立会いのうえで事情聴取を行い、前記(1)〈5〉の供述をえた。同月一〇日、高橋警部らは当時の甲山学園園長山崎種之とともに園児O、T、Dを伴ってAの墓参のため同人の父a方を訪れ、同所で午前一〇時ころから午後三時三〇分ころまでの間、山崎園長及びAの母bの立会のうえで適宜事情聴取を行ったが、Dは同月七日と同旨の供述をしたものの、Oには供述を拒否する態度がみられたため、高橋らが「学園関係者には絶対言わない、声を出して言うのが嫌ならこっそり紙に書いてくれ」と言いおいてノートと鉛筆を渡してその場を離れ、約三〇分後に戻ると、ノートには「だれがつれていった。けいじさんにだれにもゆうったあかんでぼくにいいました。」(原文のまま)と記載されていた。

〈5〉 勝警部補は、同年八月八日D方近くの姫路警察署神田派出所においてL立会いのうえで事情聴取を行い前記(1)〈6〉の供述を得て、その旨の供述調書を作成した。

〈6〉 第二次捜査の主任検察官逢坂貞夫は、第一次捜査で収集された証拠を検討した結果、前記〈4〉のOが書いたノートの記載から、DがOから目撃状況について何か聞いているのではないかと考えて、Dの事情聴取の必要性を感じていたところ、捜査一課が当時兵庫県出石郡出石町所在の精神遅滞児の養護施設出石精和園に在園していたGの事情聴取に赴くことを知り、当時Dも同園に在園していたことから、あわせて同人に対する事情聴取を行うように指示した。

捜査一課巡査部長西村末春及び同菅原昭博は、昭和五二年五月七日午前Gの事情聴取を行う他の捜査員とともに精和園に赴いた。西村巡査部長らが同園に到着し、園内に入る前「僕はなにも知らんで」と言う子供がおり、それがDであった。同園指導主任朝倉晃玄に立会いを依頼し、同園宿直室で事情聴取を始め、午前中はDの気持をほぐすため雑談をし、そのなかで甲山学園での自分の部屋、園児及び先生の名前について尋ねたが、Dは答えに時間がかかるものの、概ね記憶していた。昼食で休憩したのち、西村巡査部長が三月一九日の本件当夜のことを尋ねるうち、午後三時のおやつの前ころ、DがGに会ってAが帰らないと聞き、同人を連れに女子棟に行った場面まで供述した際、Dがもじもじした態度をとったことから、何かを見たのかと問うと、突然「Aを連れ出す人を見た、コートを着た先生が連れ出した、女の先生は被告人である」と言い出した。西村巡査部長は突然のDの供述に驚き、被告人は当夜の宿直でないのでおかしいのではないかと度重ねて尋ねたがDの答えは変わらなかった。予期せぬDの供述に西村巡査部長は捜査本部の山本警視に電話で指示を仰ぎ、同人からじっくり聞き直すようにとの指示を受け、再び本件当夜の午後六時三〇分ころ以降を中心に事情聴取を行い、前記(1)〈7〉の供述を得て、その旨の供述調書を作成した。なお、朝倉は事情聴取の間、一度もその場を中座していない。

その後、西村巡査部長は、同月一〇日に朝倉の立会いで、同月一七日精和園指導課長楠英夫の立会いでいずれも精和園で、同月二九日L立会いで自宅でそれぞれ事情聴取を行い、前記(1)〈8〉、〈9〉、〈12〉、〈15〉の各供述を得て、その旨の供述調書を作成したほか、同月一七日の事情聴取の際、精和園において、Dの目撃内容及び目撃位置などについて、マネキン人形(Aの代わり)や婦人警察官(被告人の代わり)を使って再現する実況見分を行っている。

なお、同月二九日の事情聴取の際の立会人Lは、警察官からDが大変なことを言い出したので立ち会って欲しい旨の依頼を受けて立ち会ったものであり、事情聴取のあとLはDに対し、今まで言わなかった理由を尋ねたところ、Dは「いらんこと言うな」と言われたことや、乙指導員や被告人が怖いからと述べている。

〈7〉 逢坂検事は、昭和五二年五月一一日精和園園長藤本晴雄の立会いで、同月二一日、同年六月一四日朝倉晃玄の立会いでいずれも精和園において、同年一二月二七日Lの立会いで神戸地検で、昭和五三年三月一五日楠英夫の立会いで精和園で、神戸地検検事加納駿亮が昭和五四年一二月五日Lの立会いで神戸地検姫路支部で、それぞれ事情聴取を行い、前記(1)〈10〉、〈11〉、〈13〉、〈14〉、〈16〉ないし〈21〉の各供述を得て、その旨の各供述調書を作成した。この間、逢坂検事は、Dの「父親から『いらんこと言うな』と言われた」旨の供述についてLから事情聴取をしたところ、昭和四九年四月二日の宇高巡査部長らの事情聴取の際に前記〈2〉のような経緯のあったことが判明した。また、同検事は、Oからの事情聴取の必要性を認めたが、同人は警察の事情聴取には応じたものの、検察官の出頭要請に甲山学園側が応じなかったため事情聴取はできないで終わった。なお、Oには保護者がなく、本件直後の昭和四九年三月二四日から同年四月七日までの間被告人方に引き取られ、被告人や乙指導員に監護・養育されていたもので、第一次捜査においても甲山学園側の非協力的態度により十分な事情聴取ができなかった経緯がある。

(3) 供述の評価

以上の事情聴取の経過をみてみると、前記のとおりDが最初に被告人のA連れ出しのいわゆる新供述をした昭和五二年五月七日の西村巡査部長らによる事情聴取の目的は、D自身の目撃の事実を聞き出すことにはなかったものであるし、被告人がAを連れ出した事実そのものは別にしても、その態様や目撃した際のD自身の状況等の詳細や、父親から余計なことは言わないように言われた事実については、それまでに収集された証拠にはなかったものであり、そしてその事情聴取は精和園の指導員を立ち会わせ、時間をかけて尋ねられていた状況にあり、ことにDが目撃の事実を述べた際の西村ら警察官の驚いた態度等をみると、新供述が誘導等によるものとは考えられない。(なお、このことは当日立会った朝倉晃玄が当審における証人尋問において、同人の「誘導」についての知識の程度はさておくとしても、西村巡査部長らによる事情聴取には誘導にわたるような尋問はなく、また、Dの目撃供述には自分も驚いたが、西村巡査部長らも驚いて何度も尋ね直していたが、Aの供述は変わらなかった旨供述していることからも看取できる。)また、Dが右の時点まで供述しなかった理由として述べるところのうち、父親から「余計なことは言うな」と言われた点については、その後のLに対する事情聴取において前記(2)〈2〉のとおり昭和四九年四月二日の宇高巡査部長らによる事情聴取の際にその事実があったことが確認され、Dの供述が裏付けられているところ、D自身、二度目とはいえ甲山学園の事実関係に対する最初の本格的な事情聴取の段階で、警察官による不穏当な言辞に立腹した父親から、きつい言葉で「余計なことは言うな」と言われてその場を退席させられるなどしたことがあったことを考えると、年端もいかないDにしてみれば、その原因が自分になく、また具体的事実の口外を禁じる趣旨でのいわゆる「口止め」でなかったにしても、さらには、その後その場で警察官が謝罪したとしても、右の父親の言葉は、父親に対する畏怖心や(前掲武貞昌志ほか一名作成の鑑定書によればDは父親に対する畏怖の念が強く、当審証人Lの供述によれば、Dは父親に逆らうことはない、という。)、警察官に対する反感等とあいまって、以後これらの者に対して学園内の事実関係につき口を閉ざす理由となったことは容易に頷けるところである。また、乙指導員からの暴行や口止めのあったという点については、暴行の点は同人は前記(1)〈6〉のとおり第一次捜査の段階(昭和五〇年八月八日)からその事実を述べ、乙に対する恐怖心があったと言っていることや、前掲父親Lの供述によれば、その時期の点は明確でないものの、同人はDから乙の仕打ちについては聞いていることからすれば、その事実のあったことは窺えるところであるし、また、口止めの点はDの供述((昭和五四年一二月五日)以外にないけれども、Dが父親から余計なことは言うなと言われたことや乙の仕打ちについてはいずれもその後に裏付けがとれていること、また前記(2)〈4〉のOのノートの記載からすれば、学園関係者による園児に対する口止めのあったことが窺われ、ことに当時の学園側の捜査に対する非協力的な対応等からすれば、乙の口止めそのものを直ちに虚偽の供述として排斥はできない。

そして、甲山学園を離れたことによって供述する気持ちになったとする点については、Dは昭和五〇年四月に甲山学園から精和園に移っているものであるが、その後の第一次捜査の段階である同年五月及び八月の事情聴取の際には前記(1)〈5〉、〈6〉のとおり目撃事実については供述していないけれども、その際既に乙先生は怖い旨同人に対する恐怖心を述べており、また、一般的に施設に収容されている者は施設の職員にとって不利益な事実の供述をためらう傾向があるところ、Dの目撃事実は、単なる職員ではなく、起居を共にし、現に指導・養育を受けている保護者にも等しい保母についての恐怖感を伴う異常な事実であって、D自身その後の事情聴取の際、再三にわたり被告人が怖いと述べていることをみると、当時は精和園に移ったとはいえ間もない時期であって、未だ甲山学園時代の心理的負担や恐怖心から完全に解放されたとまでは言えない状況にあり、しかも父親立会のもとでの事情聴取であることからすれば、この時期にDが目撃事実を供述しなかったからといって直ちに不自然であるとまでは言えない。そして、その後、甲山学園、特に被告人や乙らとの接触がないまま約三年が経過しD自身が述べるように、これらの者に対する心理的負担や恐怖心から解放されるとともに父親からの、いわゆる口止めが解放されたことによって供述するに至ったということは、十分それなりに理解できるところであり、そして、それらの事情が理由となって当初供述しなかったものと考えられることをみれば、その後の供述に誘導があったと考えることは相当でない。

次いで、Dのいわゆる新供述の他からの情報による影響の有無についてみてみると、Dが第一次捜査の段階で、Aが誰かのあとについて廊下を歩いていた程度のことを捜査官から聞かされていたことは考えられるし、また,Aが死亡したことや被告人がA殺害の容疑で逮捕されたことについても他から聞くなどして知っていたことはD自身の供述するところである。

しかしながら、Dの新供述は、目撃したその事実ばかりでなく、その際の自己の行動等についても詳細、かつ、具体的であって、前記のとおりその精神年齢が六、七歳にすぎない同人の知的能力を考えると、全く体験していない事実について右のような情報のみからその供述するような目撃内容やその際の自己の行動について詳細で、かつ、相互に大きな矛盾のない描写を含む「物語」を作り出すことは困難と考えられる。ただ、Dの新供述の内容は、三年近く前の事実についてのもので、そのなかには極く日常的な事実も含まれているにもかかわらず、かなり詳細にわたっているものであるが、しかし、その述べるところの目撃事実そのものはDにとって衝撃的な事実であるし、大人にとって極く日常的と思われる事実についても、年少者の注意力は一般的に原始的・即物的であるため、一見つまらないことのように思われる細かい事項が比較的広範囲に知覚されることが指摘されており、また、本件当夜の行動については、事件直後から何回にもわたって尋ねられてきたもので、その都度記憶を新たにする機会もあったものであるから、順序立てて尋問することによりD自身が漸次出来事を思い起こし、順次事実を詳細に述べることがあったとしても他に特段の事情がない限り、そのことをもって直ちに不自然とまで言えない。(前掲武貞昌志ほか一名作成の鑑定書によれば、Dは尋ね方に細かいステップを設定して行うと極めて的確な答えが返ってくるとする。)そして、Dについては、この時点に至りことさら被告人を罪に陥れるような虚偽の供述をする理由となる事情は見当たらない。

(四) 原判決の提起する疑問に対する判断

そこで以下にDの供述内容等の信用性について原判決が疑問を提起している諸点を中心に検討することとする。

(1) 本件当夜、Aの姿を見掛けないことに気付いた宿直の西田指導員から「Aを知らないか」と聞かれた際、口止め等目撃事実を話すのにブレーキになるような事情がないのに「知らない」としか答えていないのは不自然であるし、また、もし恐怖心があるというのであれば、かえって西田にその心情を話すはずである、というのである。

しかしながら、Aの行方不明の騒ぎの中で、西田のしたAの所在の尋ね方は一般的なものであり、そもそもDに対して十分な問い掛けをしたものとは認めがたいのであって、このような状況下で、Dが恐怖心から目撃の事実をひとり心にしまいこんだとしてもあながち不自然とまではいえない。この点については、のちに同人自ら、いわゆる口止めや乙や被告人が怖かったから言わなかったと言っていることからも察することができる。

(2) Dの新供述は、同人が実際にその述べているような出来事があり、これを目撃し、三年後になって初めて供述したというのであれば、同人の記憶の中に固定化しているはずの性質のものであるにもかかわらず、昭和五二年五月七日の供述と同月一一日の供述の間には、被告人が非常口を開けた時期、Aが嫌がった時期、Aが座り込んだ時期の順序が違ったり、Aを立たせる方法が異なったりしており、加えてAが四つん這いになってディルームの方へ逃げ、これを追い掛けてきた被告人がAの両足首を掴んで廊下の奥の方へ引きずっていったというような強く印象に残る性質の事実を同月七日、一〇日の事情聴取の際に述べていないのは理解に苦しむ、というのである。

しかしながら、Dの右三度の事情聴取における供述には、その指摘のとおり被告人やAの行動の順序について供述の変遷はあるものの、嫌がるAを被告人がその足をもって引きずり出したというその行動の基本的な事実には変遷はないし、原判決が指摘するAが四つん這いになって逃げた云々の事実は、五月一一日の事情聴取の際初めて述べたことであるが、それは被告人が嫌がるAの足を持って引きずり出したという極めて衝撃的な事実の一場面にすぎず、かつAの嫌がった態様の一つで、この趣旨のことは五月七日、一〇日の供述の際既に述べているのであるから、指摘の事実が一一日に初めてなされたからといって、理解に苦しむようなことではなく、いずれの事情をもみても目撃供述の基本的な部分の信用性に影響を与える事情とまでは言えない。

(3) Dの証言は、被告人がAを連れ出したあと、横の窓や洗面所の上にあがって裏を見たなど、その行動において非常口を出たあとの二人が本件浄化槽の方へ行ったことを見抜いたかのような部分があり、Dが異常なまでに青葉寮裏に拘ったことが看取されるなど、本件浄化槽で事件が起こったという知識・情報がその供述に影響を及ぼしているのではないかと疑われる、というのである。

しかしながら、DがAが非常口から外に連れ出されたことを目撃した以上、その行方に関心を持つのは自然なことであり、目撃直後廊下の窓から外を見たことは捜査段階(昭和五二年六月一七日)でも述べ、しかも、前記の青葉寮の構造から明らかなように、女子棟廊下の南側(運動場側)は女子の居室であり、廊下にある窓は全部北側(青葉寮裏側)に向いて設けられており、廊下から外を見るとなると必然的に青葉寮裏側になるし、また、窓から外を見る際の踏み台になりうるのは洗面所の洗面台だけであるから、Dが青葉寮の裏側を見たからといって直ちにそのことが奇異であるとまでは言えないし、他にそのことを疑う資料のない本件では、そのことをとらえてAが本件浄化槽で死亡したという情報に影響された結果であると結び付けることは人間の自然な関心を無視した考えで早計であると言わざるを得ない。

以上みてきたように、Dの新供述には細部の点について供述の変遷はあるものの、いずれも供述全体の信用性に影響を及ぼすものとは言えないし、ことにDの立場からみると極めて過酷であると思われる証人尋問であったにもかかわらず、被告人がAを連れ出した状況についての証言を維持していること、捜査段階での供述も、捜査官による誘導や、ことにその基本的事実に関する供述についてはそれまでに得た情報の影響によるものと疑う資料も見当たらず、また、同人がその時点まで供述しなかったことにはそれなりの合理的な理由があると考えられること、目撃事実はDの能力からみて難しいことではなく、そして誤認するような性質のものでないこと等を考え合わせると、Dの新供述、ことにその被告人によるA連れ出しの基本的事実については、捜査・公判を通じて原判決が指摘するような理由をもってその信用性を一概に否定できないものと言わざるをえない。

3  G、F・Eら三名の供述について

右三名に対する供述の信用性については、その点に関する事実取調べをしなかったので専ら記録に基づき原判決の判断に副って検討を加えることとする。

(一) Gの供述の信用性について

(1) G(昭和三三年三月二四日生)は、昭和四六年四月から前記のとおり甲山学園に在園し、青葉寮「まつ」の部屋にAほか一名と起居する園児で、本件当時の生活年齢は一五歳一一月であり、原審における証言時の生活年齢は二二歳(第一回、昭和五五年四月)ないし二二歳八月(第二回、昭和五五年一二月)である。

(2) 原審における証言の要旨は「本件当夜、ディルームで『イナズマン』を見てから、『まつ』の部屋に戻ったが、Aがいなかったので『さくら』の部屋に迎えにいったところ、同人が帰ろうとしなかったので戻る途中、Dに会い『Aが帰らない』と話した。」というものである。

また、捜査段階における供述の要旨は、第一次捜査の時点では、結局「本件当夜ディルームで『イナズマン』を見てから、『まつ』の部屋に戻ったところ,Aがいなかったので、同人を迎えに『さくら』の部屋に行った。『さくら』の部屋にはC、H、Aがおり、Aに声を掛けたが帰ろうとしなかたので『まつ』の部屋に帰って寝た。」というものであり、第二次捜査においては、右に加えて、「『イナズマン』の時にAを『さくら』の部屋に連れていった。『さくら』の部屋にAを呼びに行ってから『まつ』の部屋に戻る途中でDと会い、Aが帰らないことを話した。」というものである。

(3) ところで、原判決は、Gの原審及び第二次捜査における新供述は、〈1〉 本件後三年を経過してなされたものであり、そもそも供述内容そのものは長く記憶に刻みつけられるような印象的な出来事ではなく、また、第一次捜査においては「さくら」の部屋から「まつ」の部屋に戻る際の道順やディルームで見た園児の名前を確かめるなど、「まつ」の部屋に戻る過程でGが見聞した事実に関心を抱いたうえでの具体的な質問をしているのであるから、Gが第二次捜査になって供述するように、その際Dと会って会話を交わしたというのであれば、当然その時に供述しているはずであるのにその際にはそのことの供述がなく、その後Dの新供述のあった直後にこれと符節をあわせるようにGの新供述がなされていること、〈2〉Gは、第一次捜査の段階においてAをどの部屋に捜しに行ったかの点に関して、「女の子の部屋に見に行った。」(〈証拠〉)、「皆の部屋を捜しに行った。」(〈証拠〉)、「女の子の方を見に行ったら、『さくら』の部屋にAがいた。」(〈証拠〉)などと述べ、Aの所在が判らないことを前提として自己のとった行動事実につき供述していることをみると、Gが第二次捜査段階おいて「自分がAを『さくら』の部屋に連れて行った。」旨述べる新供述は先の供述と矛盾するものであることを理由に、Gの新供述はDの新供述の影響が顕著で、G自身の記憶喚起に基づくものとは考えられないとしてその信用性を否定する。

しかしながら、〈1〉については、先にCやDの各供述の信用性に関して説示したとおり、年少者は、直接的な質問に対しては答えられても、一つの質問から思考を発展させて関連性のある出来事を想起して供述することが困難であるところ、Gの第一次捜査における供述をみても、Dにあったことを否定する箇所はなく、当時取調官において、Gに対して、Aを「さくら」の部屋に呼びに行った帰りに、誰かに会ったか否かの点について具体的な質問をしたかどうか明らかでなく、一方、「さくら」の部屋に行った事実とその帰途に誰かに会った事実とは関連する事実であり、かつ、前者については第一次捜査の段階から一貫して供述しているところであるから、第二次捜査において、順を追ったきめ細かい質問を受けることによってG自身記憶を喚起することがあってもあながち不自然とは言えないし、仮に捜査官がDのその旨の供述を知ったうえ尋問したものであるとしても、G自身の原審公判廷における供述をみても、その点の押付けがあったと疑うところがなく、Gは、Dと会ったあとに被告人を目撃したかどうかの質問に対しては第一次捜査の時と同様にこれを否定していることからしても、前記の新供述が取調官の誘導等不当な取調べの結果ともいえず、また、〈2〉については、一見すると確かに原判決が指摘するように疑問の残る供述であるが、前者の供述はもともとAのいないことを知ってあちこち捜したことを述べるものであり、一方、後者の供述はその以前に自己のとった行動を述べるものであるから、直接的には矛盾するものではないし、ことに通常人が所在不明になった人を捜す際に前者に述べるような行動をとることはあり得ることであり、ましてGが年少者であることを考えると、その後に一見矛盾するかのような行動をとったと述べたとしても、そのことをもって直ちに不合理・不自然であり、他から強制があったとまで決めつけ、信用できないとするまでのことではなく、原判決のいう疑問は必ずしも相当であるとは言えない。

(二) Fの供述について

(1) F(昭和三三年八月四日生)は、昭和四四年四月から前記のとおり甲山学園に在園し、青葉寮「いちょう」の部屋に起居する園児で、本件時の生活年齢は一五歳七月であり、原審における証言時の生活年齢は、二一歳五月(第一回、昭和五五年一月)ないしは二二歳五月(第二回、昭和五六年一月)である。

(2) 原審における証言の要旨は「マーブルチョコを食べながら歌謡ビッグマッチを見ていた際、女子棟廊下を被告人とAが非常口の方へ歩いていくのを見ている。Aらの姿を見る前にDがディルームを通って女子棟の方へ歩いていくのを見ている。Aらの姿を見たあと、Dが女子棟の方から歩いてきたのを見ている。そのあと、西田先生がAがおらんと言ってきた。」というものである。

また、捜査段階における供述の要旨は、第一次捜査の時点では、「ディルームで『イナズマン』を見たあと、岡先生が一旦テレビを切ったが、またテレビをつけて歌番組を見た。そのころ、岡先生からマーブルチョコを貰った。歌番組を見ているとき、西田先生がディルームにきて、岡先生にAがいないと言った。その後自分は男子棟を捜したが、その際、ディルームの入口のところで、黒いオーバーを着た被告人を見た。」というものであり、第二次捜査の時点、すなわち昭和五三年三月以降においては、「テレビのスイッチを入れてチャンネルを変えた時に、女子棟廊下の洗面所付近にAが立っているのを見た。そのあと、マーブルチョコを食べているときにDが女子棟廊下入口付近にいるのを見た。」「最初にDを見たあと、女子棟廊下の奥から三つ目位の部屋の前辺りにAが立っているのを見た。その近くから女の人がスウーと消えたように思う。」「大人の女の人は被告人で、被告人とAが女子棟廊下の『うめ』か『さくら』の部屋の前辺りを、被告人が前、Aがその後になって女子棟非常口の方向に歩いていた。」というものである。

(3) ところで、原判決は、Fの原審及び第二次捜査での新供述は、〈1〉 F自身が被告人とAの行動を目撃しているのであれば、自らも男子棟の居室を見回るなどしているのであるから、西田指導員らがAの捜索をしている際に目撃事実を告げるのが自然であるのに、そのような行動に出ていないのは不可解であること、〈2〉 第一次捜査の時点で全く供述していなかったDあるいは被告人とAの行動について、事件後四年も経過した第二次捜査の段階に至って何故供述しだしたのかについてその合理的な理由を見出すことが困難であることを理由にその信用性を否定する。

しかしながら、〈1〉については、そもそも西田指導員は、男子棟を捜して女子棟に移るためにディルームを通った際にその場に居た園児に問い掛けたもので、他の園児の場合と同様特にFに対してなされたものではなく、またそれは単にAの所在を尋ねたという程度のものであったことを考えると、Fが目撃した内容そのものは格別異常で即座に告げるほどのものではなかったと考えられるから、F自身が被告人のことを含んでまでその場で直接その内容を西田指導員に告げなかったとしてもあながち不自然とはいえないこと、〈2〉については、F自身、昭和五三年三月一七日の検事の事情聴取において、乙指導員から「絶対いうなよ」と口止めされたため言わなかった旨供述しているところ(なお、Fは、この点のほか目撃事実について、原審において弁護人の反対尋問に対しては曖昧な供述をしているところ、原審におけるFの供述によれば、同人は第一回の証人尋問(主として検察官の主尋問が行われた)終了後、二度にわたり弁護人から面談の申し入れを受け、喫茶店において弁護人二名から立会人なくして供述調書の内容について事情聴取を受けている(一度はその様子を録音しながら)ことが認められることからすれば、Fの知的能力が精神遅滞児としてはかなり高く、また、検察官の証人尋問前のテストの際にも立会人を置いていなかったことが窺われること等を考慮にいれても、右の反対尋問に対する供述は右の弁護人の行った事情聴取の影響とも考えられ、単純に反対尋問によって供述が崩れたものと評価できない。)、この口止めの事実については、先にDについてみたとおり、甲山学園の一部職員によって口止め等の事実のあったことが窺えるところに照らすと、Fが第一次捜査の時点でいわゆる新供述といわれる事実について供述しなかったことにはそれなりの理由があるものと考えられ、そして同人のそれ以外のその日の出来事に関する供述をみても、特に不合理と思われる点のないことをみると、原判決が指摘するような疑問をもって一概にその供述の信用性を否定することは適切な判断であるとはいえない。

(三) Eの供述について

(1) E(昭和三二年三月二三日生)は、昭和四四年四月から前記のとおり甲山学園に在園し、青葉寮「ぼたん」の部屋に起居する園児で、本件当時生活年齢一七歳であり、原審における証言時の生活年齢は二三歳一月(第一回、昭和五五年五月)ないし二四歳一月(第三回、昭和五六年五月)である。

(2) 原審における証言の要旨は、三月一七日の出来事については「おやつのあと、青葉寮の裏のマンホールで遊んでいる時、自分が開けたマンホールにBが落ちた。被告人は近くにいなかった。」というものであり、本件当夜の出来事については、「ディルームでマーブルチョコを食べている時、自分の知っている女の人をみた。名前は忘れた。子供であった。」と述べる一方で、「女子棟廊下で一人でいる被告人を見た。被告人を見たのは一回だけである。」とも供述する。

また、捜査段階における供述の要旨は、第一次捜査の時点では三月一七日の出来事についての供述はなく、専ら本件当夜のことにつきその時間について変遷はあるものの「歌番組を見ている時で、Aがいなくなったと聞く前に女子棟廊下の方に行く被告人を見た。」というものであり、第二次捜査の時点では、三月一七日の出来事について「マンホールの周りでB、d、Y、Aらと遊んでいる時、Bがマンホールに落ちた。マンホールの蓋は自分が開けた。穴を覗くとBの髪の毛と服がちょっと見え、Bはちょっとバタバタしていた。その時被告人はディルームの西端の外の辺りにいたが、マンホールの側にはこなかった。自分は蓋を閉めずに物干し場を通ってグランドに行った。これまでの取調べでBがマンホールに落ちたことや、その時被告人が青葉寮の裏にいたことを言わなかったのは、乙先生にそんなこと喋ったらいかんと言われていたから。」というものであり、本件当夜の出来事については「ディルームで歌番組を見ながらマーブルチョコを食べているとき、被告人が女子保母室の前の廊下にいるのを見たが、すぐいなくなった。おしっこに行くためボイラー室の前を通って女子棟まで行ったとき、『ぼたん』の部屋の前にいる被告人をみた。Aと一緒だった。ロッカー室と女子保母室の間の廊下で見ていた。女子便所の中でDを見た。」というものであるが、一方、同夜被告人を見た回数について、一回あるいは二回と供述し、二回と供述した際には、「もう一回見たことは自分が困るので言えない。」あるいは「二回目のことは言ったら困る。先生にBちゃんやAのことを今言ったらあかんと言われたから。」と供述する。

(3) ところで、原判決は、三月一七日の出来事についての供述は、B転落の状況に関する部分は、自己に不利益な内容であるうえ、体験したことがなければ言えないような生々しさを備えており、一緒に遊んでいた園児の動きについても具体的な状況の叙述があること、事柄の性質上、記憶に深く刻み込まれる類の印象的、衝撃的な出来事を述べていること等に徴して、その信用性が高いと評価できるのに対し、被告人に関する部分は、〈1〉被告人がもしB転落の事実を知りうる状況にあったとすれば、少なくともそのまま無言で立ち尽くすとは考えられず、何らかの対応を示すはずであるのに、このような被告人の対応を窺わせる事実に関する供述がなく、その供述は単に「ディルームの西側の外の辺にいてマンホールの側にはこなかった」というにとどまり、被告人に関する描写に具体性、写実性を欠き、その内容も不自然であること、〈2〉原審においては、被告人がB転落の現場に居合わせた事実を否定する趣旨の応答をしていること等を理由に、捜査段階における供述の信用性を否定する。

しかしながら、〈1〉については、被告人の自白の信用性の項で詳述するとおり、被告人がBを養護・監督すべき立場にあったことを考えると、動転して身動きもできず、結局自己保身のためこれを見捨てることになったとしてもそのことをもってあながち不自然であるとまで断定しえないことであり、くわえてEの捜査段階における供述によれば、同女は、B転落ののち、マンホールを離れて被告人の立っていたという位置とは反対の物干し場を通ってグランドに行ったというのであるから、自分自身も動転していたであろうEが、その後の被告人の行動について供述できないとしてもそれは止むを得ないことであるし、〈2〉については、Eの原審における供述態度をみてみると、主尋問の冒頭において、当時の甲山学園の指導員、保母について尋ねられた際、男女九人の名前を挙げながら、被告人の名前だけはこれを答えなかったばかりか、さらに、尋問室内にいる人の中に知っている人がいるかと尋ねられた際にも、「いる」と答えながら、被告人の名前を言うことを極端に躊躇するなどの態度がみられ、また、弁護人の反対尋問が行われた第二回目の尋問の際には、その開始時間である午前一〇時までに出頭していながら、「家に帰りたい」といって入室を拒否したため尋問開始が大幅に遅れたほか、午後一時から予定していた午後の尋問に対してもこれを拒否し、一時間以上説得を受けてもこれに応じず、結局午後の尋問が断念される等の状態になるなど、同女は供述することを極度に嫌っていたことが窺われること、ことにB転落の際、その現場に被告人がいたか否かの点については、既に第一回目の主尋問の際、度重なる尋問の末、裁判長のした介入尋問によってはじめて一言「おらんかった」と答え、第二回目の反対尋問の際には度重なる尋問に対しても沈黙を続け、第三回目の反対尋問に至ってようやく「おらんかった」と答えた状況にあって、同女の供述態度には被告人に対する極度の憚りのあったことや、捜査段階からも口止めされていたことが窺えることなどからすれば、原審において否定的な供述をしたことの一事をもって、直ちに捜査段階のその旨の供述の信用性に疑いを差し挟むことは相当でない。

また、原判決は、本件当夜の出来事についての供述は、〈1〉 第一次捜査の時点の供述は、本件当夜被告人の姿を見た時期について、当初、それが西田指導員からAの所在不明を聞く前か後なのかについて動揺があったものが、日時の経過とともに明確になっているところ、そのことについての首肯しうる理由が明らかにされていないうえ、第二次捜査の時点の供述は、最初に被告人の姿を見たのは西田指導員からAの所在不明を聞く前であったことを不動の前提であるかのように決めつけ、さらにもう一度被告人の姿を目撃しているのではないか、と追及を重ねた経過が看取されること、〈2〉 第二次捜査における、被告人とAとが「ぼたん」の部屋の前の廊下にいるのを見た旨、あるいは、女子便所にいくとDがいたこと等述べる新供述については、事件後四年を経過したのちのもので何としても奇異な印象を与えるし、Dの新供述と見事なまでに符号しているところ、DとEの各新供述によれば、二人はほぼ同じ位置から同時にAを目撃していることになり、お互いの姿を認めあっていなければならないのに、二人の供述にはこれを窺わせる供述が全くないし、さらに、Eは女子便所でDに出会った趣旨の供述をしているけれども、Dの供述にはこれに見合う事実が全く出てこないことを理由に、捜査段階の供述の信用性を否定するとともに、同女が原審において捜査段階の供述を覆したのは当然である、とする。

しかしながら、〈1〉については、Eは、被告人を目撃したことについて最初に供述した司法警察員に対する昭和四九年四月一一日付供述調書では「○○先生がきたのは、Aがいなくなる前か後か」との問いに対し「忘れた」と答えているけれども、同女は、同じ供述調書内で、「歌のテレビの時先生がAを捜しにきた」「Tと二人でAを捜しに玄関に靴を見に行った」「被告人がきたのは靴を見に行く前である」ことを供述しているのであって、同女としては、少なくとも被告人がきたのはAを捜すため同人の靴の有無を玄関に見に行った前であることの認識があったのであるから、その後記憶を喚起し、それがAのいなくなったことを聞く前と述べたとしても特段不自然と言えることではないし、またEの第二次捜査における供述調書あるいは同女の事情聴取を行った検察官である原審証人逢坂貞夫、同仲内勉の各供述によれば、第二次捜査におけるEに対する事情聴取が原判決が指摘するような前提で追及を重ねたとは認められないこと、〈2〉のうち、Eが被告人とAが「ぼたん」の部屋の前の廊下にいるのを目撃したとの点については、同女が昭和五二年五月一日付司法警察員に対する供述調書で先生の名前は伏せながら「BちゃんやAのことは今言ったらあかんと言われた」旨供述し、口止めされたことも窺えるところをみると、第二次捜査の時点に至って供述したとしてもそれはそれなりに理由のあることであり不自然なこととは言えないし、次に、Dを目撃したとの供述については、EとDの供述間には原判決指摘のように互いに認めあった旨の供述がなく、そのことのみを見る限り、その供述の信用性に疑いが生じることは否めないものの、もし取調官においてDの新供述に符合させようとして誘導等を行ったとするならば、指摘の不自然さをも解消した形での供述を得ることは容易であったはずであるから、Eの供述それ自体が誘導等によるものとは考えられないことであるし、くわえてEはDに会ったというものの同人と話を交わしたとまでは述べていないことをみると、Dが気付かなかったり、また、そのことを失念することもあり得るし、Dにおいてその旨の供述がないからといって、Eのその供述が虚偽であるとはいえないし、またそのことから、同女の述べる被告人とAを目撃したことまでもDの供述結果を押しつけたとするのは早計に過ぎ、ましてや両名の目撃供述をみても原判決がいうように「見事なまでにDの新供述と符合する」ものでないことは記録上明らかであることをみると、原判決がそのことを理由にしてEの供述に疑いを持つとしたことは、予断も甚だしく到底肯認できるところではない。そのように見てみると、前記のとおり原審における証言は被告人に対する憚りが顕著であって、捜査段階の供述を覆したからといって直ちに捜査段階の供述の信用性にまで影響するものとは言えず、原判決のこの点の判断は必ずしも相当でない。

4  以上みてきたように、原判決が園児の各供述の信用性を否定する理由として説示するところは必ずしも相当でないと言わざるをえないところ、これら園児の供述の特徴は、Cを除くその余の園児が、第二次捜査の時点に至って極めて重要な「新供述」を行い、かつ、そのうちGを除く直接被告人のA連れ出しに結びつく供述をしている園児らがいずれも甲山学園職員による口止めの事実を供述していることである。そして、右の各供述にくわえて、前記の甲山学園の一部職員の捜査に対する非協力的な態度やOのノートの記載などからすると、口止めの事実が取調官の誘導等による全く虚偽のものとして排斥できないのである。

してみると、園児、とりわけ、D、F、Eの各供述の信用性を正しく評価・判断するには、口止め等罪証隠滅工作の有無についての事実取調が行われるべきであり、くわえてG、F、Eについては初期供述時の取調状況についても事実取調が行われるべきものと考えられる。

二  被告人の自白について

1  捜査段階における供述の要旨

被告人の第一次捜査における逮捕・勾留中(昭和四九年四月七日逮捕、同月二八日釈放)における供述の時期と供述要旨(主として自白及び否認の内容、三月一九日午後七時三〇分ころ以降の行動等)は以下のとおりである。

〈1〉 昭和四九年四月八日

事件当夜の午後七時三〇分ころから午後八時ころまでの間は管理棟事務室から外に出ていない。Aがいなくなったのを知ったのは、午後八時ころ、宿直の岡保母におやつが要るかどうか聞きに管理棟の裏口の戸を開けた時で、グランドの裏口と青葉寮の中間くらいにいた岡から聞いた。(〈証拠〉)

〈2〉 同月一一日

午後七時三〇分ころから午後八時ころまでの間管理棟事務室にいた旨の供述は訂正する。午後七時三〇分ころB捜索のビラ張りから帰ると、事務室には甲園長がいた。その後、大阪放送にご主人が勤める塩沢さんを知っていたので、B捜索の放送をしてもらおうと考え、華道の師匠浅香利恵に電話して塩沢の電話番号をきいたうえ、同人に電話し、電話に出たご主人に乙指導員からその依頼をした。その後、乙は、B捜索用の写真のことでボランティアの人に電話していた。次いで、Yの父から三月一七日のBの行動についての電話があり、大阪放送からの返事もあった。Dの父から電話があり、乙が青葉寮に連絡に行って戻ってきた。その後、丙指導員がBの捜索経過表を作るための糊を取りに若葉寮に行った。この間に甲が出掛けた。丙がしばらくして戻ってきたが時間は判らない。その後、午後八時前ころ用便のため事務室を出て管理棟玄関から青葉寮に行った。この時の服装は、黒のフード付オーバー、赤いセーター、青のジーパン、赤茶の底の厚い靴。平素から事務室の便所は余程のことがないと使わず、殆ど青葉寮女子保母室の便所を使っていたので、ショルダーバッグからマスターキーを持ち、これで女子保母室を開けて奥左側の便所に入った。どのくらい時間を要したか記憶がないが、用便のあとで、女子洗面所付近で岡保母を見たように思うが、園児のことは記憶がない。青葉寮と管理棟を結んだ線のグランド上で、岡からAが居なくなったことを聞いたが、それが、用便を済ませて青葉寮を出てきた時か、その後別の機会かは思い出せない。(〈証拠〉)

〈3〉 同月一二日

用便を済ませ、青葉寮から出た。その後の自分の行動については思い出せない。管理棟とサービス棟の間をグランドに向かっているとき、岡保母からAがいなくなったと聞いた。(〈証拠〉)

〈4〉 同月一三日

一一日に供述した学園に帰った後の行動についての時間的順序は、Dの父から電話で乙指導員が青葉寮に連絡に行き、乙が戻る前に甲園長が出掛けた。乙が戻ったあと丙指導員が青葉寮に糊を取りに行き、そのあと自分が用便のため青葉寮に行き、表玄関から入り、女子保母室に入った。Dの父からの電話が午後七時四〇分ころなら、用便のため青葉寮に行ったのは午後七時四五分から五〇分ころである。用便に一〇分くらいかかり、保母室の洗面所で手を洗い、玄関から外に出た。そのあと、午後八時一〇分ないし一五分ころ、管理棟の裏側のグランドで岡保母から声を掛けられたが、用便を終えて青葉寮を出たあと、岡から声を掛けられるまでの一五分くらいの間の自分の行動については思い出せない。(〈証拠〉)

〈5〉 同月一四日

青葉寮の便所に行ったが、正面玄関から入れば子供たちが気付くはずなので、正面玄関から入っていないことが判った。他の場所から入ったことは思い出せない。一五分くらいのことが思い出せない。その時間ころ丁度Aが連れ出されたことになるが、いろいろ考えてみると、自分が無意識のうちに殺してしまったような気がする。子供は嘘をつかないので、自分がAを連れ出すのを見た子供があれば、それは本当のことだと思う。そういうことから考えて、自分がいつのまにか殺してしまったと思う。しかし、どうしても思い出せない。(〈証拠〉)

〈6〉 前同日

四月一〇日までの取調べで、事務室を出ていないと言ったのは、事務室を出て青葉寮の便所を借りたと言えば疑われるし、また、逮捕された当初は本当に事務室を出ていないと思い込んでいた。(〈証拠〉)

〈7〉 同月一五日

昨日、無意識のうちにAをやったかもしれないと言ったけれども、一人で静かに考えてみると絶対にやっていない。(〈証拠〉)

〈8〉 前同日

岡保母からAがいないと聞かされたのは、午後八時一〇分ころで、管理棟とサービス棟の間のグランドに三ないし五メートル出た所。青葉寮から管理棟の方にくる岡を見つけて「どうしたん」と聞くと「Aがいやへん」と言うので、学習棟に捜しに行った。(〈証拠〉)

〈9〉 同月一七日

午後七時五〇分ころ、B捜索の帰りに買ってきたみかんやサンドイッチを持ち、青葉寮の保母室に差し入れに行った。村田敬子指導員と筒井さつき保母がいたと思う。そこからサービス棟の便所に行った。一〇分くらい便所に入ったあと、事務室に行く途中に岡に会ったので「どうしたん」と声をかけると「Aがいやへん」と言った。警察の取調べで午後七時三〇分ころ事務室に帰ってきてから青葉寮の便所に行ったと述べたのは勘違いである。(〈証拠〉)

〈10〉 前同日

今夜は本当のことを言う。BとAをやったのは自分に間違いない。その理由は明日朝から話す。BやAがマンホールの冷たい中でどんなに苦しい思いをしたかと考えると自分の苦しみはなんでもない。殺したのは自分に間違いないので、御両親許して下さい。(〈証拠〉)

〈11〉 同月一八日

うすぼんやり覚えているが、青葉寮へは洗濯仕分け室から三つ目の部屋から入った。そこに子供がいたが、誰がいたか、起きていたか寝ていたかなどは覚えていない。一旦廊下へ出て、非常口の方へ行った。今、非常口と言ったが、思い違いでディルームの方へ行った。Hの部屋までくるとAが鬼ごっこをしていたので「A」と声を掛けた。部屋に誰がいたか覚えていない。部屋に一歩入り声を掛けたと思う。それからもと来た方へバックした。はっきり断言できないが、右手でAの手を引き、東の非常口から外へ出た。非常口の戸はいつも鍵がかかっているので、マスターキーで開けて外へ出たような気がする。(〈証拠〉)

〈12〉 同月一九日

昨晩、一昨晩作成した調書について取り消そうとは思っていない。今日、動機について聞かれると思うが、やっていないので喋る筈がない。判らないし、思い出せない。警察官が真心のこもった捜査をしてくれて大変嬉しい。全然恨んでいない。警察の集めた証拠は全部自分に不利。だからもういい。私の真心は判ってもらえない。今朝、学園の人達がシュプレヒコールにきて、「警察に負けるな」と元気づけてくれたが、自分は警察に負けているのではない。自分が考えていたような警察ではなく、心の暖かい人達であることが判った。皆に大切にされて幸せと思っている。(〈証拠〉)

〈13〉 前同日

四月一七日にAとBを殺したと言ったのは本当である。三月一七日の夕方、配膳をしていた時、Bがいないことに気付き、青葉寮に捜しに行った。Bの部屋を捜したがいなかったので、浄化槽の方を捜した。Bはよく浄化槽付近で草むしりをしていたので、東の用務員室の方から回っていくと、Bが浄化槽の上で遊んでいた。「B」と声を掛けた。Bは立ち上がると同時によろけて突然姿が見えなくなった。走っていくと、浄化槽の蓋が開いており、落ちたことが判った。覗いてみたがBは見えなかった。自分の当直の時で、責任になると考え、つい蓋をしてしまった。悩んだ末、自分の責任をカムフラージュするため、他の人が当直の時事故が起これば自分が助かると思った。それで、一九日にAをマンホールに入れて殺してしまった。午後八時ころ事務所を出て、青葉寮の仕分室から三つ目の部屋に上がり、廊下に出てディルームの方へ行き、Hの部屋でAが目についた。「A」と呼び、非常口の戸から外に出て、手を引いていき、マンホールの蓋を開け、Aを入れた。Aの繊維はその時に付いたものと思う。(〈証拠〉)

〈14〉 同月二〇日

Aをマンホールに投げ込んで殺したことは間違いない。三月一七日にBが行方不明になり、それが原因で大騒ぎになり、非常に責任を感じていたのと、他の人に自分が殺したと見られるのではないかと思い、他の人が宿直の時に事故が起これば幾らか自分の責任が軽くなるのではないかと考え、カムフラージュのためにAを殺した。一九日午後七時三〇分ころBの捜索から帰り、伊丹で買ったみかんを持って捜索の対策本部にしていた若葉寮に行った。そのあと、多くの人に迷惑を掛けた自責の念で一杯で、このことが終始頭から離れないまま、青葉寮へ行った。青葉寮へは仕分室から三つ目辺りから入ったと思う。Hの部屋で遊んでいるAを見た瞬間、Aをカムフラージュのためにマンホールに投げ込んで殺そうと考えた。最初からAを殺す目的できたのでない。その時のAの服装は思い出せない。Aにみかんをやった記憶はない。Aの手を引いて女子棟の非常口をマスターキーで開けて外に出た。Aの前から両脇を抱えるようにして抱き、浄化槽の所にいった。この辺のところは恐ろしくて思い出せない。一度Aを下ろしてから、マンホールの蓋を開け、再び両脇を抱くようにして抱えあげ、Aの足の方から中へ落として蓋を閉めた。その後、管理棟に帰る途中で、青葉寮からくる岡保母に会い、Aがいないと聞いた。Aにすまない気持ちで一杯だし、御両親に何と言ってよいか言葉もない。(〈証拠〉)

〈15〉 同月二一日

Aをマンホールに投げ込んだのは間違いないと思う。そのことは、もう少し思い出せないことがあるので、検事に言うのは気持ちの整理ができてからにする。三月一九日午後八時前ころ、みかんを持って若葉寮に行く時、事務所で食べさしのみかんを持って行った。青葉寮にはBの部屋のグランド側から入った。Hの部屋でAを呼んだ。Hの部屋にはCがいたと思う。Aを呼んですぐ手に持っていたみかんをやったと思う。(〈証拠〉)

〈16〉 同月二五日

三月一七日にBのいないのに気付き捜しに行った際、浄化槽に落ちているBを目撃したというようなことはない。警察でそのようなことを言ったのは、検事の計らいで父に会わせてもらったが、その帰り押送の警察官から「父が溜め息をついていた」と、あたかも父までも自分を疑っているような様子を聞いたのと、「裁判官は黒だと思うだろう」とか、「今日はBの命日」だと聞いて、あの子達はマンホールで息絶えるまでどんなに恐ろしかったことだろう、それに較べたら自分の苦しさはなんでもない、と思ったり、さらには、乙指導員も信じていない等と聞かされて、やけくそになり供述した。(〈証拠〉)

〈17〉 同月二六日

三月一九日午後七時三〇分ころB捜索から帰ってきてからの出来事の時間的順序は、「華道の師匠浅香に電話して大阪放送の塩沢の電話番号を聞いた」「Dの父から電話があり乙指導員が青葉寮に連絡に行った」「塩沢に電話して、乙から同人にB捜索の放送の依頼をした」「Yの父から電話」「大阪放送の担当者から電話」「乙が甲園長にB捜索用の写真の焼き増しの件で代わりに行ってくれるように依頼」「甲出発」「便所に行こうと思い甲のあとから出て、駐車場のところで見送った」「午後八時一〇分ころサービス棟の厨房横の便所で用便」「便所を出て事務所に戻る途中岡に会い、Aがいないと言っていた」の順である。若葉寮へみかん等を持って行ったのは勘違い。若葉寮に行ったことはあるが、なんの用事か思い出せない。ボランティアからの電話が終わるまでのことである。(〈証拠〉)

〈18〉 前同日

B捜索のビラ配りから帰った後の行動について、「事務所を出ていない」とか、使った便所が青葉寮、厨房横と転々としているけれども、その時は真剣に言ったつもり。二〇日の取調べの際、Aをマンホールに入れるのにどのようにしたのかと聞かれて、田中部長の前に立ち、両脇に手を入れて抱き上げる実演をしたが、あれは調書の肉付けをするところだったので合わせただけで、本当はやっていない。前の取調べの時、Cに見られている、と言ったのは、警察官から「Aがあるところで鬼ごっこをして遊んでいた」と聞かされ、Aの仲の良いのはHで、HはCと一緒に「さくら」の部屋にいるので察しがついたもの。二〇日に調書を取られた時に書いた父や甲山学園の職員への手紙は焼き捨てたが、これは遺書のつもりで書いたが、死ねなかったので必要がなくなり焼き捨てた。一七日にBとAをやったのは自分と言って泣いて供述したが、これは、父が面会にきた時大きな溜め息をついたと聞かされたことと、乙指導員が女の仕業でないかと言っていると聞き、信頼している人達が信じてくれないと思い、自棄になってついやったと自供したもの。(〈証拠〉)

〈19〉 同月二七日

三月一九日午後七時三〇分ころB捜索から帰ってきてからの出来事の時間的順序は、「華道の師匠浅香に電話して、放送局の塩沢の電話番号を聞いた」「Dの父から電話があり、乙指導員が青葉寮に連絡に行った」「乙が帰ってきてから、塩沢に電話し、乙がB捜索の放送を依頼した」「Yの父から電話」「大阪放送から電話」「乙がボランティアの人と電話で話」「甲園長が出掛けた」「丙指導員が糊を取りに若葉寮へ行ったと思う。甲が出掛ける前だったかもしれない」「乙と二人になってから、事務室を出て、サービス棟の中にある厨房の便所に行った気がする」「一〇分くらい便所にいて、その帰り、サービス棟と管理棟のあいだ近くまで行った時、岡保母がグランドを青葉寮の方から来るのに出会い、『どうしたの』と声を掛けると『Aがいやへん』と言っていた」という順である。四月一七日の取調べの際、午後七時五〇分ころ事務所に乙だけを残して若葉寮へみかんの差し入れに行ったと言ったのは思い違いである。何の用事か思い出せないが甲園長が事務室から出ていく前である。若葉寮へは玄関から入り、筒井保母がいたように思うがはっきりしない。甲と二人になってから便所に行ったというのは、そのような気がするというもので、時間も判らない。甲園長が事務室を出る前後に青葉寮に行ってAを呼び出したり、連れ出したということはない。マンホールに落したりもしていない。(〈証拠〉)

〈20〉 前同日

四月一七日の夜、房内で靴下や下着の紐で自殺を計ったが死にきれなかった。一八日の取調べの際死ねなかったことを泣きながら話した。一七日の夜、父と学園宛に「弁解しても黒の証拠を突きつけられて黒にされてしまう」などと遺書を書いた。これを全部自分が自供したら渡してくれと警察官に頼んだ。結局死ねなかったので、恥ずかしいから焼いて欲しいと頼み、二〇日に取調室で自分の目の前で焼いて貰った。死のうと思ったのは、弁解を聞いてもらえなかったからである。(〈証拠〉)

〈21〉 同月二八日

「さくら」の部屋あたりから青葉寮に入ったり、Aを連れ出してみかんを食べさせる等ということは絶対していない。(〈証拠〉)

2  自白の評価

ところで、関係各証拠によれば、被告人に対する取調べは、殆ど午前九時前後から夜間まで長時間にわたって行われ、時に午後一一時を過ぎることもあったもので、これが身体を拘束された経験のない女性で保母である被告人に対して精神的な重圧になったこと、また、取調官によって、それまでに収集されたCの供述等をもとに厳しく追及されたことも想像に難くないことに加えて、被告人の自白の内容は先にみたとおり、かなり断片的、概括的であるうえ、いわゆる明らかに秘密の暴露にあたると断定しうるほどのものが含まれておらず、また、その自白は、当初否認し、その後一旦自白したのち再び否認し、さらに自白して否認するという状況にあって、その信用性の判断にあたっては慎重でなければならないことはいうまでもない。

しかしながら、取調官による無理な取調べのなかったことは、勾留に対する準抗告の審理において、準抗告裁判所が、被告人が自白したのちである昭和四九年四月二三日に行った被告人に対する事実の取調べにおいて、被告人自身これを認めているところである。そして、被告人の原審における供述によれば、被告人が自白した際、取調官の山崎清磨警視から「○○ちゃん、ユウさん(取調補助者田中勇郎)は○○ちゃんのことを信じていたんだよ。この男は親の死んだ時にも泣かなかったんや、それを○○ちゃんのこと心配してこんなに泣いている」と言われて同席していた田中巡査部長を見ると、同人は膝の上に涙をぽとぽと落としていたというのであって、このような状況からしても、当時の取調官が本件を被告人の犯行と決めつけたうえ、なにがなんでも自白を得ようとしていたものでないことが窺えるし、また、原審証人山崎清磨の供述によれば、同人は、「被告人が自白していた間、被告人が房に戻る際などに物陰に隠れていて、田中巡査部長の前に突然姿を現して驚かせたり、同人の背中に飛びついて抱きついたりしていた旨」の報告を受けていたというにあるところ、前記の田中巡査部長の態度からすれば、右の報告の信頼性は高く、これによれば当時被告人と取調官の間の人間関係は良好であったと窺え、被告人も捜査段階でそのことを述べていること、さらに、被告人には当時既に複数の弁護人が選任され、接見指定について弁護人と検察官との間に争いはあったものの、被告人が逮捕された四月七日から釈放される同月二八日までの間に、同月一一日、一三日、一五日、二八日を除き一名ないし四名の弁護人が時間の長短こそあれ接見しているもので(なお、一三日は勾留理由開示公判が行われ、被告人及び弁護人が出頭している)、とりわけ、前記のとおり被告人は同月一七日にA殺害を認め、結局二一日までその供述を維持しているものであるが、この間は連日弁護人の接見を受けていたもの(しかも、二〇日は取調開始前に、一七日、一八日は取調開始直後の午前中に、一九日、二一日は取調途中の午後に)であるから、弁護人からその都度取調に臨む態度や防御についての的確な指導や激励を受けていたはずであるし、また、原審証人山崎清磨、同勝忠明の各供述によれば、被告人については逮捕時から学園の職員を中心にした支援活動が行われ、被告人が取調を受けていた兵庫県警本部には朝夕これらの人達が被告人を激励するため訪れ、「警察に負けるな」などとシュプレヒコールを繰り返しており、この声が被告人に届いていたものであり、このことは被告人も認めるところであって、当時、被告人は取調に対し、具体的な防御の面でも、また精神的な面でもこれらの人達に支えられている状況にあったものと言える。

また、自白の内容が断片的・概括的であるといっても、もともと本件犯行は、公訴事実そのものをみても明らかなとおり、計画犯でも、また、態様の複雑なものでもないことを考えると、その供述するところの犯行の動機については別にしても、青葉寮への侵入の態様、A連れ出し及び殺害の方法については相当程度具体的な供述をしていると考えられるし、ことにその供述する殺害の方法は、のちになされた医師溝井泰彦作成の昭和四九年七月二六日付鑑定書の「Aの身体の損傷の部位から考えて、浄化槽に落ちた際に上下肢を広げない体位をとり、体を大きく横振れさせたり、強く抵抗したりせずに浄化槽に落ち込んだと考える。従って穴の側に立たせておいて手で突き落としたとは考え難い。恐らく両手を体幹の前又は後、或いは頭の上方で近づけたり、接して、両下肢は閉じたまま足の方から落としたと考えるのが最も妥当であろう。」とする鑑定結果と矛盾しないものであり、また、自白と否認を繰り返しているといっても、被告人は四月一七日に一旦自白したのち、接見の際、弁護人から自白を撤回する供述調書を作って貰うようにとの指導を受けて一九日に否認し(被告人の原審における供述)、その後も引き続き弁護人と接見し、その指導を受けていたはずであるにもかかわらず、前記のとおり格別無理な取調があったわけでもないのに、その後さらに犯行の動機やA連れ出し及び殺害の方法等について具体的な供述をしているのである。

くわえて、被告人の自白の信用性を判断するにあたって無視できないのは、被告人自身、取調官に対して、本件当夜Bの捜索から午後七時三〇分ころに管理棟にある学園事務室に帰ってきたあと、Aの行方不明を知ってこれを捜していた岡保母とグランドで会うまでの間の自己の行動について説明ができないでいる事実である。

すなわち、この点についての被告人の原審における供述は「午後七時三〇分ころ学園に帰って管理棟事務室に入ったのち、最初に事務室を出たのは若葉寮にいる職員におやつがいるかどうか聞きに行くため管理棟裏口から出た時であって、その際にAを捜している岡保母に会った。」というものであるところ、捜査段階においては、前記のとおり、「午後七時三〇分ころから午後八時ころまでの間管理棟事務室から出ていない。」(前記1〈1〉)、「午後八時前ころ用便のため青葉寮へ行った。グランドで岡保母からAがいなくなったことを聞いたが、用便を済ませて青葉寮を出た時か、別の機会かは思い出せない。」(同1〈2〉)、「用便を済ませて青葉寮の玄関から出たあとの行動は思い出せない。」(同1〈3〉)、「Dの父からの電話が午後七時四〇分ころなら、用便のため青葉寮にいったのは午後七時四五分ないし五〇分ころで、用便のために一〇分くらいかかり、玄関から外へ出た、そのあと午後八時一〇分ないし一五分ころ岡保母からグランドでAがいないと声を掛けられたが、この間の一五分くらいの自分の行動について思い出せない。」(同1〈4〉)、「青葉寮の便所に行ったが、正面玄関から入れば子供達が気付くので、正面玄関から入っていないことが判ったが、他の場所から入ったことは思い出せない。この一五分くらいのことが思いだせない。」(同1〈5〉)、「午後七時五〇分ころ買ってきたみかん等を持って若葉寮の保母に差し入れに行った。そこからサービス棟の便所に行き、一〇分くらいいたあと事務室に行く途中で岡保母に会った。」(同1〈9〉)、「甲園長が出掛けたあと便所へ行こうとおもい、甲のあとから出て同人を駐車場で見送り、午後八時一〇分ころサービス棟の厨房横の便所で用便し、事務室に戻る途中で岡保母にあった。若葉寮へみかん等の差し入れに行ったというのは勘違い。若葉寮へ行ったことはあるが何の用か思い出せない。ボランティアからの電話が終わる前である。」(同1〈17〉)、「乙指導員と二人になってから、事務室を出て、サービス棟の便所に行ったような気がする。一〇分くらい便所にいて、その帰りにグランドで岡保母に会った。乙と二人になってから便所に行ったというのは、そのような気がするというもので、時間もわからない。」(同1〈19〉)旨それぞれ供述し、その供述は転々としている。

ところで、被告人が供述を求められている事実は、Aの行方不明という衝撃的なことを聞かされたその直前のわずか一時間にも満たない間の自分自身の行動、即ち、その時刻の点はさておくとしても、午後七時三〇分ころに管理棟事務室に戻ってのちグランドで岡保母に会うまでの間に、「岡保母と会った時とは別の機会に管理棟を出たことがあるのかないのか」、「出ているとすれば、その際は何処に何をしに行ったのか」などという極めて単純な事実であり、かつ、三月中旬という、いまだ夜間は寒い時期に、わざわざ建物の外へ出たという印象に残りやすい事実についてなのである。そのうえ、被告人の供述によれば、被告人は逮捕されるまでの間に六回にわたり事情聴取を受け、そのなかで事件当夜の午後七時三〇分以降の行動について尋ねられているというのであるから、記憶を喚起する機会も十分あったものである。しかるに、被告人は前記のとおり事務室内での出来事については詳細に記憶の喚起ができていながら、自分自身が管理棟を出たと言いながらその際の行動について極めて曖昧な供述に終始しているのである。しかも被告人は、当初犯行を否認することができていた状況にあったのであるから、当夜の自己の行動についても、それが前記の原審公判廷における供述どおりであるならばその間はそのとおりの主張ができたはずであるから、被告人自身述べる前記のような自己の行動についての供述は極めて不自然であるというほかない。

以上の取調べの状況、自白当時やその前後における被告人に対する弁護活動等被告人を取り巻く環境、供述内容とその供述経過等を子細に検討してみると、被告人は当然取調べの当初において明確に釈明できる筈の自己の行動について曖昧な供述を繰り返すうち、取調官の追及と説得に行き詰まり、それが「殺したとおもう」という供述になり、ついには弁護人の指導にもかかわらず自ら自白するに至ったものであり、その後自白を撤回したり、その自白内容が断片的・概括的に止まったことも、それは取調官の追及・説得と弁護人の指導、支援の人達の激励との間で被告人自身の気持ちが揺れ動いた結果とも考えられ、その都度その都度の供述時には被告人の自由な意思が残され供述したもので虚偽のものとは考えられない。

3  原判決の提起する疑問に対する判断

そこで以下に供述内容等について原判決がその信用性に疑問を提起している点について検討することとする。

一  被告人がB転落の現場を目撃しえたとしても、これを見殺しにするとは考えられないし、「自分が助かりたい」とか「Bを殺したと思われはしないか」ということを懸念して他の園児の殺害を思い立つというのは不可解である、というのである。

しかしながら被告人の述べる本件のA殺害の動機となったBの転落事故の目撃事実(〈証拠〉)については、そもそもそのことを述べたEの「Bがマンホールに転落した。その時近くに被告人がいた」旨の供述(〈証拠〉)は第二次捜査に至って得られたものであるから、当時取調官によって誘導できる事実ではないし、その供述する事実によると、日頃保母として園児を養育・監護する立場にあり、かつ、当日の日勤者の一人として直接責任を負う立場にあった被告人が突然予期しない、しかも必然的に死を伴うところのBのマンホール転落という大事故を目前に見て動転し、瞬間自己に対する責任追及を恐れるの余りこれを見捨てたということ自体が理解できないことではないし、さらに本件の時点で被告人に対する直接的な責任の追及はなかったとしても、自責の念や大掛かりな捜索が行われていることなどから追い詰められた気持ちになり、いずれ自己に対する責任追及がなされると考え、自己の勤務していない時に、Bと同様園児の行方不明が起これば、Bの行方不明についての被告人に対する責任追及が弱まると考え、本件の殺害を思い立ったということは、本件の動機としてはかなり特異な事情であるとはいえ、その被告人の立場を考えれば、原判決がいうように不可解なものとは言えない。

二  動機供述が被告人の当時の心理状態や思惑を正しく伝えているとすれば、本件は悩み抜いたすえの計画的犯行といわなければならないが、その自白する犯行時間帯は発覚の危険の大きい時期で計画的犯行というには無謀極まりないものでその動機供述は不自然である、というのである。

しかしながら、被告人自身は計画的犯行と供述しているわけではなく、その供述はBの捜索活動に従事するうち、次第に精神的に追い詰められた結果の偶発的な犯行である旨供述(〈証拠〉)しているところ、被告人の立場を捨象してみれば極めて大胆な犯行と考えられるが、被告人は青葉寮の保母であり、かつ、当夜はB捜索のため宿直以外の保母が学園内に残っていたのであるから、宿直でない被告人が青葉寮内にいたとしても格別不審に思われる状況はなかったし、仮にAを青葉寮の外へ連れ出す前に当夜の宿直であった西田指導員や岡保母あるいは園児に見られたとしても何とでも弁解できる状況にあったものといえることからすれば、原判決が指摘するような無謀極まりない犯行ではなく、その動機としても格別不自然なものともいえないのである。

4 結論

してみると、被告人の捜査段階の自白は、原判決が疑問として指摘するところの理由をもって一概にその信用性を否定することはできないものと言わざるをえない。

むしろ、自白の信用性を正しく評価・判断するには、前記のとおり被告人の自白は、被告人の本件当夜の午後七時三〇分ころに管理棟事務室に帰ったのち、グランドで岡保母と会うまでの間の被告人の行動の解明と密接に関連しているといわなければならないから、これと表裏の関係にある被告人のアリバイとアリバイ工作の有無についての事実取調べを尽くすことが必要である。

三  繊維鑑定について

1  鑑定資料の収集

関係各証拠によれば、本件鑑定資料の収集、保管及び繊維片採取の経過は以下のとおりである。

Aが本件当夜着用していたセーター等の着衣については、昭和四九年三月一九日の夜同人の死体が収容されたのち、西宮署においてその身体から脱がされたうえ、一点、一点ビニール袋に入れて保管され、その付着繊維は、同月二四日兵庫県警本部科学検査所技術吏員信西清人によって、ビニオテープを圧着する方法によって採取されたのち、顕微鏡を用いて摘出され、顕微鏡用スライドグラスに挟んで保管され、また、被告人が本件当夜着用していたダッフルコート等の着衣については、同年四月七日捜索差押令状によって被告人方から押収され、同じく一点、一点ビニール袋に入れて西宮署に保管され、その付着繊維は、同月九日前記信西によって前同様の方法によって採取・摘出されて保管されたものであって、付着繊維の採取の過程における繊維の相互付着の可能性は全くなく、各着衣から採取・摘出された付着繊維はその鑑定資料としての価値に疑いを差し挟む余地はなく、この点については、原判決も認めるところである。

2  鑑定の評価

付着繊維の鑑定のうち、大阪市立工業研究所員浦畑俊博の行った鑑定の手法は、各繊維の染色に使用された染料の分光学的分析に基づいて染料の異同を判定しようというものであるところ、浦畑は、前記三月二四日にAの着衣から採取された付着繊維片二本の染料が被告人のダッフルコートの繊維の染料と「非常に酷似する」「類似する」、また、前記四月九日に被告人のダッフルコートから採取された付着繊維片二本の染料がAのセーターの繊維の染料と「非常に酷似する」旨鑑定している。(〈証拠〉)

そして、染料の分光学的分析に基づく染料の異同の判定という手法そのもの、あるいはこれを分析判定する浦畑の能力や経験には問題はなく、また分析に用いられた島津製作所のマルチパーパス自記分光光度計自体の精度及びその使用方法に疑問とする点はなく、その分析結果は正確であること等からすれば、前記の鑑定結果は信頼がおけるものといえ、当裁判所もその結果を重く評価するものである。

ところで、原判決は、右の浦畑鑑定について、採取された付着繊維の鑑定資料としての価値に疑いを入れる余地のないこと及びその手法の科学的信頼度についてはそれなりの評価を与えるのが相当であることを理由に、ひとまずはその鑑定結果を尊重すべきであるとしながらも、本件繊維鑑定の結果は、被告人とAの着衣がいつ、どのようにして相互に付着したのかという点まで明らかにするものではないから、仮に相互付着の事実が立証されたとしても、付着の時期、原因、態様と本件犯行との関連性を窺わせる事情が不明確であれば状況証拠としての証明力に限界のあることは否定できないとしたうえ、本件において園児供述及び第一次捜査における被告人の自白の信憑性に関する検討の結果、被告人と公訴事実との結びつきを認めるに足りる証拠が極めて不十分であるとの判断に至ったことから、本件犯行の立証のうえで繊維鑑定のもつ証拠としての説得力は著しく弱いものになっているとの考えに立ち、さらに本件鑑定では試験片が非常に小さいことや資料の破壊が許されないこと等の制約があって、化学分析等の手法が併用できなかったため、鑑定結果を尊重するといっても色相ないしは繊維質の点での相似性が高いことを肯認しうるにとどまること、もともと繊維の相互付着という現象は、着衣が直接接触した場合にのみ起こりうるとは断定しがたいうえ、本件当夜以外の時期、場所においても相互付着の原因となる事態がありえたとの疑いを差し挟む余地のあることを理由に、結局右の鑑定結果が被告人の犯行を裏付けるものと解することは到底許されないとする。

なるほど、本件繊維鑑定の結果は状況証拠のひとつであって、被告人と本件犯行とを結び付ける証拠としてはその証明力に限界があること、また、鑑定は相互の付着繊維が全く同一であるとまで断定するものでもないし、繊維の付着が「飛来」など直接接触以外の方法によって起こりうることも否定できないこと等は、それなりに理由となり得るものであるが、しかしながら、双方の着衣に「極めて酷似する」繊維がしかも「相互」に付着しているという事実はそのことを現実的常識的に考えればその相互付着が「飛来」など接触以外の原因によるものではなく、各着衣が直接接触したことを強く推認させるものと考えるのが一般的であると思われる。そして、関係各証拠によれば、Aの行方不明が判った直後に被告人が右ダッフルコートを着用していたことは明らかであり、また、被告人が右ダッフルコートを学園内での執務中に着ていないことは、被告人が本件犯行について否認していた段階である昭和四九年四月一三日の警察官の取調べにおいて「ダッフルコートを着たまま学園に行ったのは三月一九日の事件当日のほか一、二回くらいあるが、これを着たまま子供の面倒を見たことはない」旨(〈証拠〉)供述しているのである。

3  結論

してみると、繊維の相互付着の事実は、前記のとおりその証明力に限界があり、この事実のみをもって本件が被告人の犯行であるとすることはできず、その犯行を決定付けるためには、その他の状況証拠である園児供述あるいは被告人の自白の信用性有無の判断如何にかかり、そしてこれらを総合して結論付けられるものとはいえ、少なくとも右の鑑定結果はそれ自体被告人と本件犯行とを結び付ける相当有力な物的証拠と言えるものである。してみると原判決が、検察官において、本件犯行時以外の場面で相互付着を生ずる可能性のない旨主張し立証しようとした証拠を取調べないで、右鑑定結果を本件犯行を裏付けるものと解されないと評価・判断し、本件との結び付きを否定したことは誤りと言わなければならない。

四  当裁判所の結論

以上検討してきたように、原判決が、園児供述に関しては、これら園児に対する口止め等の罪証隠滅工作の有無とその初期供述した時の取調状況等について、自白に関しては、アリバイ及びアリバイ工作の有無について、また、繊維鑑定に関しては、本件犯行時以外に付着の原因があったか否かの点等につき、各検察官請求の証拠を取調べしないでそれらの事実を考慮することなく、それら証拠の信用性を否定し、あるいは、本件との結び付きを否定したのは、取調べるべき証拠を取調べなかった結果各証拠の評価とその事実判断を誤ったもので、原判決には、少なくともこの点において審理不尽があり、その結果、当然これらの証拠により認めるべき事実の認定をしない誤りをおかし、被告人と犯行を結び付けるその他問題となる事実に対する検討を加えないで、被告人と公訴事実とを結び付ける立証が不十分としたことは、そのこと自体判決に影響を及ぼすこと明らかであり、原判決は到底破棄を免れない。論旨は理由がある。

よって、刑訴法三九七条一項、三七九条、三八二条により原判決を破棄し、本件につきさらに前記の各点等につき審理を尽くさせるため、同法四〇〇条本文により本件を原裁判所である神戸地方裁判所に差し戻すこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 西村清治 裁判官 瀧川義道 裁判官 石井一正は海外出張のため署名押印できない。裁判長裁判官 西村清治)

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